大阪・枚方の市立枚方宿鍵屋資料館の展示を眺めてきたわけですが、続きとしては「くらわんか舟」のことを振り返っておこうかと。
そも「くらわんか舟」というものを知りましたのは、一昨年(2022年)に(枚方からは淀川を隔てた対岸に当たる)高槻周辺をうろうろしたときでしたなあ。だもんですから、「くらわんか舟」というのは淀川左岸、高槻側の専売特許なのであるかと、その時は。確かに発祥は高槻側にあるようです。
くらわんか舟の営業権は、高槻柱本茶舟が最初に獲得しました。慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、高槻城から兵糧米2万石を運ぶなどの功績により幕府から公認されました。
陸路・水路ともども賑わいを見せる枚方を川向うから眺めた高槻の船頭が、なんとか客商売のおこぼれに預かりたいと始めた商売だったかもしれませんですね。上の写真(実は鍵屋でなくして淀川資料館の展示なのですが、それはともかく)のように貨客を満載した三十石船に忍び寄って?へばりつくさまは、ソマリア沖あたりでしたら「すわ、海賊か?!」てなものでしょう。それこそ映画『キャプテン・フィリップス』で見たような…と、話を進めてしまっておりますが、「くらわんか舟」とは何であるかに触れておりませなんだ。淀川資料館ではこのように説明がありましたですよ。
三十石船の船客に食べ物や飲み物を撃っていた茶舟。「くらわんか」とは、方言で「食べませんか」という意味で三十石船に近づき「飯くらわんか、酒くらわんか」と暴言ともとれるような声をかけたことから、このようによばれた。
とまあ、こういう舟なわけです。で、船客には町人ばかりか侍もいたでしょうに、この乱暴な売り言葉は誰彼無しだったようすが、鍵屋の方の再現映像で詳細に見ることができまして、苦笑を禁じえないほどの粗暴さなのですなあ。ですが、くらわんか舟の売り手側からすると将軍家のお墨付きを盾にやりたい放題であったような。ただ、このお墨付きというのはどうやら眉唾ものようでもあるようで。上の引用のように兵糧米輸送の功績はあったにせよ、鍵屋の説明ではこんなふうに。
…徳川家康あるいは秀忠を救った恩賞として、独占的営業権と粗言御免のお墨付きをもらったという話が有名ですが、これは後世の創作のようです。
ま、粗言はともかく、営業権の方は幕府から「茶船鑑札」という許可を得てやっていることなので、公認されていたことには間違いないのでしょうけれど。
ですが、ある種の特権付与には義務も付き物なわけで、時に応じて枚方の船番所から幕府御用を仰せつかると舟を出さなくてはならないといったこともあったようで。鮒番所にしてみれば、いちいち対岸から舟を呼びつけるのは手間だったからか、高槻柱本に与えられた茶船株20株のうち、ひと株の保有者を枚方側で営業するよう呼びよせたそうな。すると、やはり近くにいると便利であるのか、そこから枚方のくらわんか舟は「次々と数を増やし、地理上の有利さから次第に勢力を持つようにな」ったということでありますよ。
とまあ、かような展示解説のあれこれが並ぶ鍵屋の別棟一階を巡って、二階に上がりますと、昭和期の料亭の賑わいが浮かんでくるような大広間になっておりました。折り上げ格天井はじめ、凝った設えとともに、障子の向こうは堤越しに淀川が眺められる。利根の川風ならぬ淀の川風袂に入れて…と、さぞや宴会は大盛り上がりしたことでしょう。
続いては一旦、別棟玄関を出て、江戸時代後期の建物(の解体復原)である主屋も覗いておくことに。さすがに、昭和の建物のレトロ感とは異なって、歴史を感じるところでありますなあ。
別棟二階に上がったところで「淀の川風…」てなことを申したですが、鍵屋を訪ねた5月の下旬、いやはや暑い日だったのでありますよ。もちろん、これを書いている8月に比べれば可愛いもんだったとは言えましょうが、それにしてもその時は。ですが、川風が入ってきていたならば、結構涼めるのが川端ではなかったかと。昔は今の様に高い堤防も無かったでしょうしね。それに、昔の日本家屋はそれなりに夏を涼しく過ごす工夫があったようにも思えましたですよ。主屋のうちから京街道を望む眺めの涼やかなこと。これも感覚的に涼を呼び込む工夫なのかもしれませんですね。