今回は(何度も言うようですが)大阪市内には足を踏み入れていないものですから、大阪へはフライトでアプローチし、到着後はモノレールで南茨木へ、乗り換えて阪急京都線で高槻市駅へというルートをたどったのでありますよ。
ですので阪急の駅近くにステイしましたのですが、印象としては「小さな町であるか…?」とういもの。さりながら、駅の北側はなかなかににぎわっており、しばぁらく歩くと到達するJRの高槻駅との間に小さな商店や飲食店がずらり。両方の駅をつなぐあたりにべたっと繁華なエリアがあるてな感じでしょうかね。
しかしまあ、この両駅の微妙な距離感は?と思うところではなかろうかと。JRの高槻駅はそもそも東海道本線の駅ですので、歴史的には古いはず。1876年(明治9年)の開業だそうですから。一方で、阪急(当初は違う鉄道会社であったようですが)の高槻市駅は1928年(昭和3年)にできたのでありますな。
明治になって各地に鉄道が敷かれ、どこに駅を設けるかというときにあちこちで町の中心から遠ざけられた経緯がありますでうすね。当時は蒸気機関車であって、けむりや火の粉をかぶってはたまらんと考えた人が大かったようで、あまり人家の無いところに通すべきであると。また、物流でにぎわう宿場の構成員とすれば、街道にぴったり沿って鉄道ができては商売あがったりとも考えたようでして(後から私鉄が通る頃には鉄道は便利なものとなっており)。
というようなことが高槻にも当てはまるかのであるか…とも思いましたが、どうやら当時のメインストリートである西国街道はむしろJRの北側に沿って通っており、そこにはかつての芥川宿があったわけです。ただ、場所としてはJR高槻駅から微妙な離れ具合であって、そこにはやはり上述のような思惑が交錯したのかもと思うところでもありまして。
では、JR線が歴史ある西国街道に沿っているとなりますと、それよりも南側の阪急京都線、さらに南側に広がるかつての城下町は何故ここに?と。気付いたことには、こちらはこちらで淀川の水運の利が近く得られるところであったということでしょうか。今の地図で見ると、それほど淀川に近いとも言えないような気がしてきますけれど、大きな川なだけに、昔はなおのこと川筋が暴れたのではと想像しますので、町としてはある程度の距離を保っておく必要はあったろうかとも。
後に立ち寄ることになる施設の紹介パネルで見れば、内陸のお城を挟むように支流が流れているので、これによって物資搬入も可能だったと伺えました。また、淀川の名物に「くらわんか舟」というのがあったそうで、歌川広重も『京都名所之内淀川』に描き込んでいるという。
広沢虎造の名調子で知られる浪曲「石松三十石船」なんつう演目にもあるように、淀川は京と大阪を結ぶ大船がたくさんの人を乗せて行きかっていたわけですが、そうした船に向けて食べ物、飲み物を売りに漕ぎよせてくる小舟を称して「くらわんか舟」と。大船の乗客に「くらわんか、くらわんか」と呼びかけたことからその名が付いたそうでありますよ。
で、この「くらわんか舟」、どうやら上の地図のいちばん下に表示されている柱本という村が発祥の地であるとか。そもそもは「大坂夏の陣で徳川軍の兵糧米輸送などに協力したことから、営業の特権を得たといわれ」ているそうな。しかし、どんな乗客にも「くらわんか!」と呼びかけるとは、相手が武士ならば無礼者扱いされそうですが、そこはそれ、徳川将軍のお墨付きがものを言ったようでありますよ。
とまあ、長い長い前置きだけの話になってしまいましたですが、そんな町の歴史を持つ高槻で、阪急京都線の南側あたり、城下町をそぞろ歩くあたりを次に記すことにしようかと(笑)。まずはこんな看板を頼りに歩き始めるのでありました。