小ぢんまりとした施設ながら展示のあれこれを「ほお~」と思いつつ見て回って、またしてしも話が長くなっている大阪・枚方市の淀川資料館ですけれど、最後はここまでの振り返りで落っことしていたあたりを落穂拾い的に。まずは淀川のはじめの一歩(まだ瀬田川と呼ばれる段階ですが)には琵琶湖があるとは今さらながら…。

 

 

ちなみに琵琶湖に流れ込む川は約117本(はっきりと何本とは言えないようで…)であるの対して、流れ出る方は瀬田川1本であるとか。あちこちの水路から集まって琵琶湖に溜まるも出口がひとつだけとは、いかにも氾濫・洪水が起こりそうな具合ではありませんか。瀬田川が流れ出て早々に、瀬田川洗堰が設けられているのも宜なるかなと。

 

 

ところで、最初に「淀川のはじめの一歩には琵琶湖が…」と申しましたですが、展示解説を見ていて「へえ~、そうだったんだぁ」と思いましたのは「琵琶湖は河川である」ということなのですよね。説明にはこんなふうに。

日本の河川管理について定めた法律「河川法」では、「湖」は川の水が一時的にとどまっている場所と考えるため、びわ湖は「淀川水系一級河川 びわ湖」という名前になっています。

最近のベストセラー小説『成瀬は天下を取りに行く』は滋賀県大津市を舞台にしたお話ですけれど、その中で主人公・成瀬が「実は琵琶湖は川なのだよ」と蘊蓄を語るところがあるようでして、今では琵琶湖=河川と知る人が急増中かも。読んでいないので、この説明を見て素直に「そうかぁ」と思ったものでありますよ。

 

余談ながら「そういえば…」と思い立ち、個人的には琵琶湖よりも些か馴染のある信州・諏訪湖もたくさんの流れが集まってくるも出口は天竜川一つだったなと。調べてみれば、といって法律に書かれたとおりですけれど、やっぱり天竜川水系の一部、つまりは諏訪湖も川だったのですなあ。では、川が流れ込みもしないし、流れ出てもいないと言われる北海道の摩周湖は「どうね?」と思えば、これは河川法の管理下には無い。つまりは正真正銘の「湖」とはこういうのを言うのでありましょうか…と、余談でした。

 

琵琶湖について付け加えるならば、結局のところこれを淀川の水たまり(といっては身も蓋もありませんが)として、淀川の源頭部はさらに上流となるようですなあ。

福井県と滋賀県の県境の長浜市余呉町栃ノ木峠に「淀川の源」の石碑があり、この地で生まれた一滴が高時川から姉川、そしてびわ湖へと流れ込みます。

ともあれ、その後流れ流れて淀川は大阪湾へと注いで海となるわけですが、今では大阪平野と言われるあたり、6000年から7000年前に(縄文海進の影響でしょうか)上町台地の北から西の低地、そこれそ枚方のあたりまでも海が入り込んでいたのであると。やがて、海の水位が下がって低湿地が広がるわけですが、低いところだけだけに、川はそれこそ自由気ままに流路を暴れさせたことでしょう。

 

 

昔の大阪平野といっていつ頃の状況なのかは詳らかでありませんが、この状態のままでは人が住むにも、農耕を営むにも難儀する土地だったことでしょう。その点、利根川東遷等の河川改修が行われる以前の関東平野も似たものかと。ただ、淀川の方は今でも大阪(市街の中心部は迂回する形であるも)を流れていますが、利根川は(川が江戸湾へと流れ込みたがっているのを無理やり)千葉県銚子に注ぐようねじ伏せたのですよね。そのせいで、北関東から利根川に合流する河川が、大雨のときには利根川本流の流れに負けて逆流し氾濫するということを繰り替えておるわけで。鬼怒川とか小貝川とかの例は近年のニュースにもあったように。ま、そのおかげで江戸市中(東京23区)は事なきを得ているとはいえ、とばっちりを食わされている人たちがいるのですよねえ。

 

 

と、話を淀川に戻せば、こちらはこちらで明治18年(1885年)に大水害が生じたとか。それこそ三川合流域の手前辺りまで被害が生じ、昔々には海だったこともある低地の守口市や門真市、東大阪市などは広域に被害が出たようで。これを機に、淀川の大規模改修が行われたのであると。

 

 

上流では瀬田川洗堰の設置、中流では宇治川の付け替え、下流には毛馬閘門を設けて従来本流を大川から新しい淀川を開削して流すといった一連の大工事が行われたのですなあ。東京で言えば、荒川放水路の開削ということになりましょうかね。

 

 

とまあ、そんな淀川ですけれど、(上のロンドン、テムズ川のように)川は当然にして低いところを流れる…と思っておりますと、さにあらず。元々低地であったところで人が住まい、農耕を行う土地を造るのに流路を安定させるため、大阪湾に素直に落とすためにはこんな高さで流路確保が必要だったのでありましょう。そうなれば、浸水被害は今でも常に付きまとうことになりますですねえ。

 

てなことで、あれこれ「ほうほう」と思いながら見て来た淀川資料館の展示。ここに出て来た下流域の毛馬閘門や淀川大堰はやがて間近に見ることになるのですけれど、それはまた後のお話。次は一旦、京街道枚方宿の町並みの方へと戻ってまいるのでありますよ。