今やいささか古びた感のある山形県立博物館を訪ねて、地学的なところで「山形のなりたち」を見て来たわけですが、続いて豊かな生態系を示す動植物の展示があるも、これはちと端折りまして、歴史の続きはいよいよ人類が舞台に登場してくることになります。
話としては当然に旧石器時代から始まりますが、それよりも何よりも、その先の縄文のコーナーには山形県立博物館きってのお宝があるのですなあ。山形県最上郡舟形町(先日の大雨に祟られたところですな)の西ノ前遺跡で発見された土偶が国宝なのでありますよ。展示スペースも特別扱いになっています。
で、この国宝展示室の中央に鎮座ましましておりますのが「縄文の女神」と呼ばれる土偶ですけれど、この愛称(?)は長野県茅野市の尖石縄文考古館で展示されている2体の国宝土偶、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」を足して二で割ったような印象で、ちと二番煎じ感が出てしまうような。ただ、発掘されたのは奇しくも「縄文のビーナス」と同じ年(1986年)ながら、むしろ「縄文の女神」の方がちと早いのであると(ちなみに「仮面の女神」は2000年の出土)。御見それいたしました。
今からおよそ4500年前のものとなりますと、これまた奇しくも「縄文のビーナス」と同時期の作と言えそうですけれど、造形はずいぶんと異なっておりますですねえ。「縄文のビーナス」のどっしりした安定感(それが単純にも安産祈願、子孫繁栄を想起させるわけですが)に比べて、「縄文の女神」の方はなんともシュっとした立ち姿、実にスタイリッシュではありませんか。
解説に曰く「『横から見る』ことを意識した造形と考えられます」とあるのも、頷けてしまうところでして、この切り詰めた造形なればこそ、目鼻などが省略されても気になるどころか、素直にSF的と思えてもしまうようでもありますなあ。立像とすることも意識されたか、脚部が太くできてますが、このあたりも昔の子供のおもちゃにあったブリキのロボットのようで、レトロSF感が弥増すところかと。尖石の国宝土偶2体が縄文の呪術的、土俗的な雰囲気を醸すのに対して、ここでまた(数々の縄文土器とは別に)縄文意匠の多様性を見る思いがしたものでありますよ。
と、話は飛んで古墳時代。「4世紀の終りごろには、東北地方でも古墳がつくられるようになり」まして、最も古いのは福島県会津地方にあると。その後、「5世紀になると、仙台平野・米沢盆地・山形盆地でも大型の古墳がつくられ、5世紀末には、岩手県南部」、さらに8世紀には北海道にも古墳分布が及ぶ…という流れは、要するにヤマト政権の権力がじわじわ北にも及んでいったということでありましょうね。青森県の三内丸山遺跡に大集落が見られるように、東北地方は至って縄文色の強いところでしたから、そこへ弥生の系譜に連なる畿内中央が勢力を拡大していった結果なのであろうと。
古墳分布では日本海沿岸部が空白地帯のようでもありますけれど、奈良時代の律令体制の浸透はどうやら日本海側のルートをたどったようで。なんとなれば、和銅元年(708年)に越後国(ざっくり新潟県ですな)に出羽郡が置かれ、それ先に広がるような形で和銅五年、出羽国(今の秋田・山形)が誕生、国の中枢である国衙は庄内地方(山形の日本海沿岸部)に置かれたようですし(秋田に移った時期もあるようです)。
ま、山形盆地方面は、最初は陸奥国の領域として仙台あたりに設けられた陸奥国国府の方が行き来しやすかったかもしれませんけれど、出羽国成立とともに移管されるわけで、出羽国の中心は日本海側だったのでしょうね。
ともあれ、中央の支配下に入った山形は遠隔地なだけに、他の地域と同様、荘園管理で存在感を増した武士が台頭するようになり、それぞれの地場勢力が抗争しつつ、やがて戦国時代を迎える。最上義光登場に至って、各地を切り従えて五十万石を超える大大名となっていく…と続くのですが、そのあたりはまた触れる機会が別にありましょうね、たぶん。
つうことで、ざっくり過ぎるほどざっくりと歴史の一端を見て来たところで、このほど山形県立美術館を訪ねた主目的たる特別展を覗くことに。テーマは「最上川」、これをこの次に振り返っておこうと思っておりますです、はい。