山形の立石寺に来て石段登りを始めたところが、未だ道半ば以下。四寸道のあたりまで来たところから先のお話でありますよ。四寸道からはおよそ60段ほど登りますと、松尾芭蕉ゆかりの「せみ塚」に到着となるのですな。手前の角柱に「せみ塚」、奥の入浴石鹸のような楕円の石には「芭蕉翁」と刻まれています。

 

…麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。閑かさや岩にしみ入る蟬の声 『おくのほそ道』

塚の置かれたこのあたり、深山幽谷感が濃厚で静寂なることこの上無し。聴こえてくるのはただただ、時折はあはあいいながら登ってくる方々の息遣いくらいなものでして、どうやら蝉の声も聞こえてはいない。芭蕉が山寺に登拝したのは元禄二年五月二十七日で、新暦では7月13日となるとなれば、実際に訪ねたことの時と季節差はあまり無いのですが…。

 

ちなみにここで芭蕉が聞いた蝉の声は何蟬であったのか、論争があったそうですなあ。ご当地山形出身の歌人・斎藤茂吉がアブラゼミを主張したのに対し、文人仲間はこぞって反対、ニイニイゼミだったろうと。茂吉は改めて現地踏査をし、自らの非を認めニイニイゼミ説に落ち着いたのであるとか。ま、科学的根拠があるというわけでもないので、余談のレベルですけれどね。

 

個人的には「閑かさや」とか「岩にしみ入る」とかいう雰囲気は「ヒグラシが似合うような…」という気にもなってますが、そもそもヒグラシは俳句では秋の季語だそうですから、ここで(含みにもせよ)使うのは掟破りになってしまうのかも。ですけれど、上の論争も同様ですけれど、芭蕉が実際に山寺で詠んだ句を「閑かさや岩にしみ入る蟬の声」であるとした上での考え方なのですよね、これって。

 

ただ、各所で詠んだ句が後に『おくのほそ道』という紀行文にまとめられるまでの間にも熟考が繰り返され、決定版と思しき作品が所載されたらしきことはたたあるようで、山寺で詠んだ句も同行した曾良の日記には「山寺や石にしみつく蝉の声」と記録されているとか。「閑かさや…」が情趣深い、それこそ独り歩きしてまかり通る名句になっているのに対して、「山寺や…」の方はその場のリアルな印象がストレートに伝わってくるような。

 

芭蕉が汗をかきかき登っている最中、頭上の木立からはわんわんとした蝉時雨が(しずかどころか)降って来ていて、「うっせえわ!このアブラゼミ!」てなことが実際だったのかもしれませんですねえ。でも、それを詠みっ放しにしないのが、芭蕉が文豪たるところなのでしょう。旅日記である曾良の記録と、『おくのほそ道』の記載には食い違いがいろいろあるそうですけれど、これを芭蕉の虚構と見る以上に文学的昇華の結果と見るべきであるようで。そう言われますと、「閑かさや…」の句ひとつだけをとっても「なるほどねえ」と思える気がしたものです。

 

ところで、上の写真に見る塚の下には「芭蕉翁の句をしたためた短冊を埋めて」あるそうなんですが、これはもちろん芭蕉直筆の短冊ではないのでしょう。何せ、「閑かさや」の句自体が後付けですものね。それでも、名句誕生のきっかけとなった場所であることは間違いないと、しみじみすることはできますですよ。

 

ま、松尾芭蕉のお話は山寺下山後に別途訪ねる山寺芭蕉記念館でもまたということになりますので、ここではほどほどに…と思うもすでにすっかり長くなっており。案内図の上でせみ塚が8番ですので、12番の奥之院まではまだまだ登りが続くようですなあ。ということで、さらに山寺を登っていくお話は続きます。