さても穏やかな心持ちで石清水八幡宮に参拝を終えましたのち、今度は山下りということになりますですが、ちとその前に御本社の裏の方に展望台があるということですので、そちらの眺めを見ておくことに。「石清水案内絵図」では右手の園地になったようなあたりですな。

 

 

舗装路が続いてはいるものの、もはや境内という感覚を離れて山の中を歩いているようで、覗けば結構な斜度で切れ落ちた斜面の端に付けられた道を進んでいくという。この道はケーブルカーの山上駅と八幡宮を結んでいるのですが、すれ違う人とてちらりとしかおらず…。

 

 

ともあれ、斜面の際を巻くように少々登り返していきますと、やがて絵図のとおりに園地のようになったところに到達しました。

 

 

木間越しに展望が開けていて、眺めやれば目の前を木津川が流れ、そこに架かる大きな御幸橋(「みゆきばし」でなくして「ごこうばし」であると)を歩いて往復してきたのだったなあと、ちょいと前のことですのにすでに懐かしく思い出したりしたものでありますよ。

 

 

ちなみにこの園地にはひとつ文学碑が建てられておるのですなあ。「谷崎潤一郎文学碑」とありますが、その石碑のいささか鈍重な外見は「谷崎っぽくない?…」てな気もしたものです(といって、谷崎作品をほとんど読んだことがないのですが…)。

 

 

碑文として刻まれていますのは小説「蘆刈」の一節で、「大山崎から橋本へ渡る淀川の中洲が小説の舞台であり、男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられている」(文学解説板)というあたりを所縁として、ここに彼我が建てられたようで。

 

わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山はあたかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして全山の木々の繫みがびろうどのやうな津やをふくみ、まだどこやら夕ばえの色が残ってゐる中空に暗く濃く黒ずみわたってゐた。(谷崎潤一郎「蘆刈」より)

碑文の文字はなんでも「昭和八年に刊行された潤一郎自筆の本による」という凝りようですけれど、毎度のことながら達筆過ぎて読めない…。ま、作家が書いた原稿は達筆にもせよ、悪筆にもせよ、読めないことが多いですけどね(笑)。

 

碑文の文字はともかくとして、小説では男山を川の中洲から眺めているとなりますと、男山の山上に碑があるのはいささかいただけないような。方角的には川越しに男山を望める場所の方が適当ではありませんしょうか。例えばこんな…。

 

 

もっともそうなると、碑を眺めて「ほお!」という人もほとんどいなくなりましょうけれどね…と、眺望の得られる園地でひとときのんびりした後、ようやっと男山の下山にかかることに。

 

体力的に歩きで下るのはまったくやぶさかでないところでしたですが、園地に至る前に通りかかった石清水八幡宮参道ケーブルの山上駅があまりにひっそり閑としていたことに少々心を痛めた次第。「このままでは廃止の憂き目を見ることに…?」てなふうにも思えてきて、ここはひとつ、乗ってやろう!とは恩着せがましい言いようながら、実のところは今乗らないと本当に無くなってしまうかも…と。

 

 

てなことで、わずかな貢献(?)をすべくケーブルカーで下山することにしたわけですけれど、ケーブルの車両を見てびっくり?!…というお話を次回ということで。