こんなに来る人がいるのであるか…と驚かされた伏見稲荷大社でしたけれど(といって、訪ねた中の一人ということにはなりますが)、そこではおそらくおみくじを引いて帰った方々もたくさんおられるのでしょうなあ。なんでも、伏見稲荷大社のおみくじには「大大吉」というのがあるそうで、これを引き当てれば気分はあげあげ!てなことにもなりましょうから、運試しにも気合が入るのかもしれません。

 

もっとも個人的には、運試しってようするにギャンブルの類?と思えたりもし、おみくじといえども敬して近づかず。全く試みたことが無いとはいいませんですが、あちこちの寺社を訪ねてついぞおみくじを引いた記憶はないのですなあ。それにもかかわらず、こんな本を読んでしまったりはするのでして、吉川甲府歴史文化ライブラリーの一冊、『おみくじの歴史 神仏のお告げはなぜ詩歌なのか』です。

 

 

おみくじを提供(?)する場所は神社仏閣で、それぞれに長い歴史を持っていたりすることから、おみくじ自体も神代の昔からあるものてなふうに思ってしまうところながら、そうでもないようで。個人的にはおみくじといって思い浮かぶのはお寺さんよりも神社であるかなという印象でしたけれど、歴史的にはどうやら仏教先行であったのでしたか。

 

仏教がインドで誕生した当初からおみくじ的なるものがあったとは思いませんが、これが中国に伝わりますと、そも中国の文字の起源である甲骨文字は亀卜に始まるわけで、占い要素が入り込んだのでしょう、仏典に『天竺霊籤』(「籤」は要するにくじですな)なるものが出てくる。お釈迦さまの教えを処世訓的なお告げとして伝えるものでしょうけれど、これが「くじ」になるのは「易」(筮竹じゃらじゃらの易)の影響もあるような。

 

ともあれ、これが日本にもたらされて、広めたのは元三大師良源であったとか。ご本人も悪魔のような姿が描かれる御札で今も知られる人ですけれど、中国由来のものでうから、お告げは漢文で記されている。でもって、人々に伝わりやすくするには漢詩の形式(これも中国由来)が語呂がよくなじむと思ったか、そんなことで仏教系、寺院のおみくじには漢詩で書かれたお告げが書かれてあるという次第。日本の信仰は長らく神仏習合で来ましたので、この漢詩みくじは平然と(?)神社で出されてもいたようです。

 

ですが、神社のおみくじには和歌が書かれているのでないかいね?と思えば、そうした傾向が顕著になったは江戸時代のようなですなあ。国学の隆盛によって日本の独自性を強く意識した結果、神社では日本の古い伝統を鑑みたおみくじを考案せねばとなってもいったと。古い伝統というのは、昔々の大昔、神がかりとなった巫女が神の御託宣を歌にのせて伝えるというもの。和歌には神のお告げが宿っているというわけですな。

 

そうしたところから、おみくじに適当な(解釈によってどうとでも受け取れるような?)和歌が過去の名歌として残る中から編まれ、あるいは新しく作り出されて、江戸期には「歌占」として大いに流行ったのであると。

 

ちなみに「解釈によってどうとでも受け取れる」、つまり個々の願い事はさまざまながらそのどれにもお告げたる意味が受け取れるというあいまいさというか、汎用性というか、そんな要素があるのは仏教系の漢詩もまた同様のようですけれどね。

 

ところで、おみくじに適当な和歌が新しく作り出されるという点では、今やキャラクターみくじのようなものまで出回るご時勢にあっては、(和歌といわず分かりやすい文章が書かれてあるにしても)おみくじの作り手というのが必要になりますですね。本書の著者(大学教員)も自らのゼミ生ともども、おみくじ作成プロジェクトに関わってきているようで。ま、そこまで極端に新しくなくとも、全国の神社におみくじを供給して圧倒的なシェアを誇るという女子道社は明治期に立ち上がった団体であるそうですな。いずれにせよ、新しく作られた和歌、文章もちゃあんと神前でお祓いを受けることで神様のお告げ化するので、それで良しということのようでありますよ。

 

そんなこんなの経緯が分かってきますと、(人により大いに個人差はありましょうけれど)元より敬して近づかずというスタンスである者にとっては、もはや歴史も伝統も何も…と思えてしまうような。そもそも、仏教伝来で期待されたのは(個人の御利益云々でなしに)鎮護国家だったのでしょうし、また神社系みくじにつながる巫女を通じた託宣というのも国の在り方などの大事を扱っていたわけですから、個々人の現世利益を神仏頼みとするのはどうなんでしょうねえと。

 

先にも触れたキャラクターみくじのようなものが出回っていることを思えば、寺社が(陰に陽に?)宗教的テーマパークを目論んで、おみくじもそのアトラクションのひとつてなふうに考えたらよいでしょうか。とにもかくにも、宗教は言葉に耳にを傾けてもらわなければ始まらないでしょうから、場合によってはあざとくも見える方法も用いつつ、まずは来てもらう、知ってもらう、聴いてもらうことが肝要で、手段を選んでいる場合ではないのかもしれません。

 

個人的な考えから、いささか否定的な見解のようにもなってしまってますが、「おみくじ?とんでもない!」というようなことを言うつもりは毛頭ありませんので、その辺はどうぞ誤解無く願いたいところですけれど、どうもおみくじ頒布を通じて、寺社そのものが現世利益に一喜一憂する人たちを助長するようなことでなければいいのですが…。