ということで、京都市伏見区にある京セラ本社ビル併設の京セラファインセラミックス館を訪ねた折、ついでに(といっては失礼ながら)もひとつ、「稲盛ライブラリー」という施設もあるこということで覗いてみた次第です。創業者(のひとり)である稲盛和夫の顕彰施設とは思っていましたが、これほどとは。別棟となっているビルがひとつ、まるまるでありましたよ。

 

「稲盛ライブラリー」は、京セラグル^プが21世紀においてもさらに成長し続ける企業でありたいとの思いを込め、創業者 稲盛和夫の人生哲学、経営哲学である京セラフィロソフィを学び、継承することを目的に開設いたしました。

館内に足を踏み入れて早々目にする開設のご挨拶にはこのようにありますが、個人的にはあちらこちらの企業で創業者をカリスマ視するのが、どうにも苦手でありまして、京セラがここまで稲盛推しであったことには全く気付いておらなかったのは単に世間知らずなだけなのかもですね(苦笑)。

 

 

エントランスではやおら稲盛本人(の等身大?パネル)が出迎えてくれてますけれど、果たして当の本人はこうした扱いを望んではおらないのではなかろうかと思ったり(ついつい、雑司が谷霊園にある夏目漱石の(巨大な)墓石を思い出してしまったりも)。確かに、左側壁面で紹介されている稲盛の生涯は、病気に苛まれたり大きな挫折を味わったりと苦労人だったのだなあということは分かりますし、起業をし、立ち上げた会社がこれほどに大きくなったのは稲盛の技術者としての成せる業であるとは思いますけれどね。それにしても、京都セラミックの立ち上げは稲盛ひとりの仕事ではなかったはずですのに…。

 

ところで、正面の壁面に大書された「敬天愛人」という言葉。何やら聞き覚えが…と思いましたら、これに先立つ3月に鹿児島を巡り歩いていたので記憶に残っているであったかと。要するに西郷隆盛の言葉であって、鹿児島出身の稲盛が座右の銘ともしつつ、京セラの社是にもしたということのようで。技術者・稲盛とは別に経営者・稲盛の経営哲学の根幹を成す言葉でもあるというのですなあ。

 

先ほど企業で見かける創業者のカリスマ視が苦手と言いましたですが、実は明治の元勲と言われるような人々を薩長の方々が取り分けカリスマ視するのもまた「うむむ…」の思いを禁じ得ず。要するに将軍のお膝元、江戸に由来する土地の人間だからでしょうか(いわゆる江戸っ子というわけでもないのですが…)。ま、そんな具合であれば早々に退散すればいいところながら、来たからには元を取る(入場無料ですけどね)というか、それでも何かしらの気付きがあるかもとは思って、ひととおり見て回ったものでありました。結果、「敬天愛人」はともかくも稲盛の経営哲学には確かに「なるほどなあ」と思えるものがありましたですね。ですが…。

 

 

「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」を「経営理念」として掲げて、類稀とも言っていいほどに従業員目線を持った経営者なのであったかと思いますし、広く「人類、社会の進歩発展に貢献」とはミクロもマクロも見ていたのであるなと。ただ(といって、個々から先、京セラばかりの話ではありませんので、ことさらにこの会社がどうのということではありませんですが)、結局のところは資本主義下にある企業の限界といったことも感じてしまったりしたのでありますよ。

 

なんとなれば、こうした経営理念の下で(おそらくは)従業員満足度も高く、従って人的生産性も非常に高い中で業績を挙げてきたのでしょう、極めて優良な企業として大きな会社に育ってきたわけですが、結局のところ会社は大きくなることを使命としている、稼いで稼いで大きくならなければならない、とまあそのあたりが「限界」のように思えてしまうのですなあ。

 

その辺を企業人として当然と考えなくてはやっていけない、仙人のように生きていくほかないというのが現状かもしれませんですが、会社が大きくなってこそ大きなことができる、先ほどの「経営理念」に照らせば(稼ぐことで)「人類、社会の進歩発展に貢献」できるのだからというのが思い込みなのではないですかねえ。この先、どんな進歩発展が果たして人類、社会に貢献することになるのか、はっきり言って見通し得ないようになってしまってはいないかなと。

 

世の中には新しいモノがどんどん現れてきて、それによってこんなに便利にと喧伝されますけれど、それが現れて来たが故の面倒もたくさん生じている。おそらくは便利の前に多少の不便は致し方ないのだとなるのかもしれまれんが、それが本当に許容すべき不便なのかどうかさえ、見通しにくいですものね。

 

そんな中で、企業はとにかく成長せねば、なんとなれば稼いだもので社会貢献するのだからと言われても「うむむぅ」ですし、成長させられるだけ儲けているならばその儲かり方を疑ってみることも必要なのではないかなと思ったり…。

 

 

京セラが後にKDDIに統合されるる会社のひとつDDIを設立して通信事業に参入するする際、稲盛は(新たな市場に参入する)「動機善なりや、私心なかりしか」と自らに問いかけ、それまで電電公社しかなかったところに競争原理を持ち込むことが国民の利益になるとして新事業を進めていったことが紹介されていますけれど、これも資本主義、民間企業、競争原理といった経済の当たり前を当たり前として考えたときにはそのとおりなのかなと。でも、国民の利益、この場合、具体的には電話料金が安くなるとかいうことが、こうした経済の当たり前を当たり前と考えてときにしか実現できないということでもない。この辺は、物事を性善説に立ってみないと、及びもつかない絵空事としか思えないのかもなあ…と考えるくらいには冷静ではおりませすけれどね。

 

とまあ、とても旅日記の見聞録ではない話になって、さらに際繰り返しになるも全くもってことさら京セラを云々しているわけではないのですけれど、くれぐれも誤解なきように願いたいところです。そんなこんなの思い巡らしがあったというのも、ここを訪ねた甲斐であるとは言えましょうね。