鹿児島市内でもって訪ねたところが「関吉の疎水溝」や「寺山炭窯跡」と、世界遺産の構成要素になっているとはいえ、なんとも地味なところを巡ったりしたですが、鹿児島観光に来た人ならば桜島ともども、おそらくは誰しも立ち寄るであろうと観光スポットへと立ち寄ったのでありますよ。こちらです…といって、入口だけでは判りにくいでしょうけれど(笑)。

 

 

名勝 仙厳園(恥ずかしながら読み方が分からなかったのですが「せんがんえん」と正解のようで)。入口を見る限りでは空いていそうですけれど、写真は丁度団体客が通り過ぎたタイミングを狙ったもの。鹿児島港も大型クルーズ船の寄港が増えたと聞きましたが、園内にはなるほどクルーズ船の寄港地観光へと繰り出してきた外国人観光客(主に欧米系のようす)がわんさか。加えてアジア系と思しき観光客(主に中国系のようす)も同じくらいいて、園内の賑わい(何故かしら中国語の会話は妙に声が大きいように思えたりもしつつ…)で。

 

ともあれ、観光客必見であるらしい仙厳園とやらは、例によって鹿児島県観光サイド「かごしまの旅」の紹介文にあたってみますと、こんなふうにありますですよ。

万治元年(1658)に島津家19代光久によって築かれた島津家の別邸です。雄大な桜島を築山、錦江湾を池に見立てたスケールの大きな庭園で、28代斉彬もこよなく愛し、篤姫など多くの人を魅了しました。
およそ1万5千坪の広大な庭園には、四季折々の花々が咲き誇り、大名家ならではの催しも魅力です。ガス灯の実験に使用された鶴灯籠や、全国でも珍しい猫を祭った猫神、江戸時代の正門である錫門(すずもん)など、見どころが満載です。 仙巌園が位置する磯エリア一帯は、平成27年(2015)に「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。日本の近代化を推し進めた薩摩の人々のストーリーを感じることができます。
島津家800年の歴史を学べる博物館・尚古集成館や、見学可能な薩摩切子工場が隣接し、立ち寄りスポットとしてもおすすめです。

ということで、ここに至る流れからして「明治日本の産業革命遺産」関係をこそ見て回らなくては…なのですけれど、ちと遅めの昼食を園内のレストランで。

 

 

「黒豚重ねカツ御膳」とは要するにミルフィーユとんかつ定食ですが、鹿児島らしく黒豚で、場所柄それなりのお値段ですので、もちろんおいしくいただきました。レストランはちょっとした高みにあってしかも2階ですので、見晴らしよろし。これもまた値段のうちでしょうか(笑)。

 

 

現在の入園口とは異なって、島津のお殿様がたは桜島を後ろに、こちらの門から出入りしていたようでありますよ。で、その島津家の別邸たるお邸部分は追加入場料が必要でして、勢いセット券みたいなのを買ったとなれば、まずはそのお邸「御殿」とやらを探訪に。

 

 

鹿児島なればいずこでも見かける丸に十字紋は島津の印、これを潜って中へ入りますとすぐ右手が玄関の間であると。はっきり言って、今でも東京に一人住まいする庶民はこの部屋のみで完結するくらいの感じでしょうかね。

 

 

床の間に飾られた甲冑は、幕末に来日したロシア皇太子(後の皇帝ニコライ2世)が仙厳園に立ち寄った際、島津家30代目の忠重が着用した出迎えたもの(展示はレプリカ)であるとか。忠重は当時5歳くらいの子供だったわけで、どうりでちっちゃな甲冑ですなあ。ニコライは後に大津事件という大災難で遭遇するとはこの頃少しも考えておらなかったでしょう。

 

 

でもって、こちらは「謁見の間」であると。ずいぶんと上から見下ろす感がありますけれど、要するに来客対応の応接間なのですよねえ。洋風のテーブルセットが設えてありますが、明治期から敷地内で水力発電して煌々と灯りを点していたそうな。「関吉の疎水溝」から引いた水流によるのでありましょうかね。

 

 

来客に「ほほう!」と言わせるには部屋からの眺めも肝心というわけで、このとおり。桜島を借景とは少々ずるなような気も…。

 

 

てなふうに御殿をひと廻りして、さあ、世界遺産に関わる園内の各所を…と思ったところで、カメラが充電切れとなってしまい…。これから!というときに何ともとほほな話です。関吉の疎水溝から導いた水流を園内に引きまわすようす、そして寺山炭窯跡でかつて作られていた白炭を燃料に稼働させた反射炉(残骸状態でした)などを脳裡には刻んできたですが、短期記憶は衰亡の一途をたどる今日この頃ですのでねえ(苦笑)。

 

と、仙厳園を訪ねてなんとも尻切れトンボ状態の探訪となってしまいましたが、折しも仙厳園にあって博物館的役割を担う尚古集成館本館が休館中(2024年9月末まで)でしたので、まあ、また訪ねることもあるかもしれませんなあ。