瀬戸蔵ミュージアムに再現された街並みとして、「やきもの工場」はいかにもなと思ったものですけれど、工場を抜けた先にはこれまたいかにもな「せともの屋」の店先が再現されていたのでありますよ。構えが大きいのは、それだけ大きな商いがあったということになりましょうか。

 

 

 

店頭や店内には紐でまとめてくくられたやきものが、それこそ山のように積まれているわけですが、これは誇張でもなんでもなくして、往時のせともの屋はこんなもんじゃあなかったようです。昭和50年(1970年)頃の店の写真を見れば、驚くばかりではなかろうかと。

 

…こうしたせともの屋では、ありとあらゆるやきものが取り扱われ、写真のように、紐でくくられた食器がうず高く積み上げられる風景がよく見られました。この頃の家庭では、冠婚葬祭や行事などで家に大勢の来客があったため、20個、30個のお茶碗やお皿、小鉢などを用意しておくことが必要でした。そのため買う側もまとめ買いをするので、紐でしばってあったほうが便利だったのです。

なるほど。してみますと、せともの衰退の一因は大家族が減ったこと、自宅に大勢が集まって会食するような機会が少なくなったことでもあるような。ただ、「20個、30個のお茶碗やお皿、小鉢などを用意しておく」収納スペースを考えると、どんな家にもできた話ではないでしょうなあ。そこで思い出されたのは、以前、東京・福生市の郷土資料室で見かけた「椀膳倉」ですなあ。「庭場という地域や講ごとに共有する祝儀道具や食器類を収納」する共用施設は、便利に使われたことでありましょうね。

 

ところで、改めて「せともの」という言葉を振り返っておこうと思うのですが、解説パネルにはこのように。

「せともの」という言葉は、今ではやきもの一般を指して使われています。この言葉はもともと「瀬戸物」、つまり「瀬戸でつくられたやきもの」を意味するものでした。かつて、瀬戸でつくられたやきものが「せともの」というブランドとして各地に広まり、やきもの全般を指す代名詞として定着していったのです。

…ということなのですが、何故に瀬戸物がやきものの代名詞になっていったのか、今一つ得心がいくところではないような。そこで同館常設展示図録の中から、も少し補っておくことに。

「瀬戸物」という語は、十六世紀半ばの文献にはじめて登場しますが、「瀬戸物」が今と同じように陶器全般を指す通称として使用されていくようになるのは、生産技術の向上により大量生産されるようになったことで庶民の生活にも一般的にやきものが登場し、その一方で、街道などの整備によりやきものが全国に流通していった江戸時代後期の頃であると考えられています。以降、陶器だけでなく磁器も含めたやきものを総称する言葉として「瀬戸物」が日常の中に定着していきました。

ようするに大量生産・大量流通を手掛けたのが早かったのが瀬戸ということでしょうか。陶器に加えて磁器生産にも取り組んだことも含めて。ちなみに、瀬戸物という語の文献初出は16世紀半ばということですけれど、その証拠物件(のひとつ?)が、こちらであるようで。

 

 

永禄六年(1563年)「織田信長により市場に掲げられた」制札でして、時期的には桶狭間で今川軍を破ったものの未だ尾張一国の統一は道半ばという頃ながら、「領域内の自由通行権の保証、商取引の自由などが定められて」いるものであるとか。確かに、書き出し部分に「瀬戸物」も文字は見えますなあ。

 

ちょいと前に岐阜県の多治見市美濃焼ミュージアムでも「信長朱印状」(複製)が展示されていましたけれど、磁器生産の始まる前であってもせとものが諸国交易品として重きをなしていたことを知ることのできる史料ではありましょう。

 

 

いささか時代は下りますが、こちらは幕末から明治にかけて刊行されたという『尾張名所図会』の中に出てくる「瀬戸陶器職場」の図の一枚と。「瀬戸物」が「せともの」として知られるほどの生産現場のようすがにぎにぎしく描かれておるような。ともあれ、他のやきもの生産地の陶工たちにしてみれば、なにもかも「せともの」で片付けられてしまうことには忸怩たる思いがあってでしょうなあ。そんなことをしみじみ思うせともの屋の店頭でありましたよ。