「関東平野部でも雪」てなことが予報されていた日に、池袋の東京芸術劇場へ読売日本交響楽団の演奏会を聴きに出かけたのでありますよ。幸い?雪にはならずに雨模様で済みましたけれど、まあ、寒い一日ではありました。

 

 

演奏会は、ニコライの歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲でもって明るい雰囲気で始まりまして、「ほんとに近頃の読響は好調であるなあ」と。オーケストラ演奏を堪能するには「今ここに旬あり」の印象があったりするわけでして。でもって、前半2曲目はウェーバーのクラリネット協奏曲第2番をダニエル・オッテンザマーの独奏で。この演奏では、思いがけずもコンサート・ホールのコンサート・ホールたる由縁を思うところになりましたですよ。

 

演奏会をホールで聴く。閉ざされた空間ですので、普段自宅でCD(などの音源)を再生して音楽を聴くときにはなかなか叶うことの無いダイナミクスを体感することができるわけですね。このとき、ダイナミクスの振れ幅としてはとかく大きな音の方に向いて、こんな音量を自宅で再生したらそれこそご近所から苦情が寄せられてしまうのでは…という、振動感を思い浮かべたりするところながら、その実、コンサート・ホールの威力は弱音の方にもあったという。

 

ソロの音が消えゆく瞬間、つまりはオッテンザマーが楽器に息を吹き込むのを止めた瞬間が聴きとれたと思えるようなところがあったわけです。これはこれですごいことなのでして、やはり自宅でCDを聴いているときには、そんな弱音になるともはや実は音としては聴こえておらず、頭の中で「こうだろう」という音が想像されているばかりなのですけれどね。アンコールで演奏されたオッテンザマーの即興がまたクラリネットの深い音が沈みこみ、消えゆくような演奏をしてくれたものですから、この弱音再生の体感度は弥増したような次第です。

 

ところで、そんな中でメインの演目は「田園」(ベートーヴェンの交響曲第6番)なのでありました。ともすると、これまた「手垢がついた…」と言ってしまいそうになるくらい知られた曲ですけれど、当日のプログラム解説によれば初演は失敗であったと。1808年12月に、性格の異なる双子の兄弟ともいうべき交響曲第5番(いわゆる「運命」)、ピアノ協奏曲第4番などともに一夜の演奏会で初演されたそうですが、今でもそれぞれがベートーヴェンの代表曲のひとつとされるような曲が並んでいながら、結果は思わしくなかったのであるというのですなあ。理由として考えられるところは例によって「諸説あり」ですけれど、「会場が寒すぎた」という説もあるとは、現代のコンサート・ホールで聴ける幸いを感じなくてなりませんですね(でも、会場内は少し寒かったかな…)。

 

も少しそれらしい説としては「作品が聴衆の理解を超えていた」というのもあるようで。こちらの方が「そうかも…」とは思うところではありますねえ。当時における革新性として、交響曲第5番の方は「運命の動機」とも言われるレンガをひたすらに積み上げて巨大な建造物が造られたとも言われるように、独自性の強さがあったわけですが、それに比べて第6番の方は「田園」と呼ばれる穏やかな印象も相俟って、革新性といった尖った印象とは結び付きにくいところがありましょうから、この曲まで含めて「作品が聴衆の理解を超えていた…のであるか?」とも。

 

さりながら、この「手垢がついた」とも言ってしまった曲を(取り分け生の演奏として)聴いておりますと、これはこれでとても独創性の高い音楽であったのであるなと気付かされるのでありますよ。なんとなれば、およそ全編にわたって音楽がたゆたっているばかりでもあって、いわゆるメロディアスさには乏しい、それにも関わらず、長い音楽を飽かず聴かせてくれるじゃないのと。

 

そもそもメロディー、旋律というのは…と振り返っておきますと、「コトバンク」(精選版 日本国語大辞典 )にはこんなふうにありますですね。

 (melody の訳語) あるリズムを伴って歌うように展開する音の高低のまとまったつながり。節(ふし)。節回(ふしまわ)し。メロディ。

ですので、たゆたうばかりであろうがそれは旋律、メロディーではありますけれど、一方で「メロディーメーカー」といった言葉から想像するメロディーの印象は(かなり狭く見ることになるかもですが)歌詞を付ければ歌えてしまうような旋律なのでもあろうかと。いわばキャッチ―な掴みのいいメロディーというのは確かにあって、クラシック音楽の作曲家の中でも例えばチャイコフスキーあたりが「メロディーメーカー」と言われたりしますが、なるほど「歌える」メロディーが多いようにも思うところです。

 

翻ってベートーヴェンの第6番は…といえば、第1楽章冒頭は「田舎に着いたときの愉快な気分」を表出して、鼻歌でも歌える旋律ですけれど、その流れはワンフレーズで終わってしまって、続くのは常に寄せくるさざ波のように音楽が続いていくのですよね。「これは、歌えない…」と。

 

ですので、この音楽の構築法というのは、曲全体の印象が第5番とは全く異なるものの、実は同時期に作曲された双子の兄弟らしい、動機の積み上げ方式のようなところがあるような、そんな気がしてきたのでありますよ、聴いていて。その辺の新奇性を当時の聴衆はしっかり感じとった、つまりは「理解を超えた」音楽と受け止めたのかもしれませんですね。

 

「運命」の方はその構築性の故に何度聴いても感心すること頻りなのですけれど、「田園」の方もまた醸される雰囲気に紛らわされることなしに構築性を聴いてみるようにすれば、もはや「手垢がついた」などとは口が裂けても言えない…となるやもしれんと思ったものなのでありました(これまた今さらながら)。