先日訪ねた国立歴史民俗博物館では主に先史時代の展示を見て回りまして、縄文土器の地域差あたりを備忘に留めたのでありました。話では触れませんでしたけれど、展示の中には当然にして土偶もあったのですよね。
左から「ハート型土偶」(群馬県郷原遺跡出土)、「縄文のビーナス」(長野県棚畑遺跡出土)、そして「遮光器土偶」(青森県亀ケ岡遺跡出土)の三体。いずれも土偶オールスターズの代表選手のような存在ですので、国立歴史民俗博物館といえども展示品は複製なのですけれど。
とはいえ、これらのスター土偶を見て、ふと思い出すことには「そうだ、『土偶を読む』にどれも取り上げられていたな」と。それによれば、ハート型はオニグルミの、ビーナスはトチノミの、遮光器はサトイモの、それぞれ精霊イメージを象ったとして「正体、見たり!」と著者は言っていたのでしたっけ。
2021年4月に刊行された『土偶を読む』は数カ月遅れという、比較的早い段階で読んだのですけれど、「似ている」という感覚をベースにスタートした議論展開にも関わらず、「もはやこれしかない」という決め打ちの論調が鼻について仕方が無かったことが思い出されますなあ。本来の内容とは別に、自説にいっかな目を向けようとしない考古学界に対して牙むき出しの物言いもげんなりさせられるところで、これには異論・反論たくさんあろうなあと思ったものの、学界的にはスルーされてもいたような。
そんな中、『土偶を読む』に贈れること2年、2023年4月に刊行されたのが『土偶を読むを読む』であったのですな。表紙カバーからして、『土偶を読む』への疑念まるだしですので、批判本とはすぐに想像がつくところかと。予て気になっておりましたが、歴博の土偶に接して思い出し、読んでみた次第でありますよ。
前半部分は「検証 土偶を読む」として、先の本が紹介した土偶と、それぞれに擬えられた植物や貝との関係を一刀両断する形となっておりますな。曰く「都合のいい証拠ばかり取り上げている」云々と。こういってはなんですが、この反証の姿勢には、そもそも『土偶を読む』になんとなく感じられたヒステリックなようすがそのままに表れてもしまっているような気がしたものです。
案の定(というのが適切かどうか…)こちらの編著を担当したのが考古学者ではない、『縄文ZINE』という雑誌の編集者(いわば縄文好きが高じた人)であったわけで。だからこそ「そんなことあるかい!」感が出せたのでしょうし、この本を出すこと自体、考古学者のなせるわざではなかったでしょうし。
本書の後半では、研究分野さまざまな考古学者との対談などが収録されていますけれど、興味深かったのはそちらの方ですかね。考古学者はなぜするーなのかという点に関しても、そして「トンデモ本」とされてもおかしくない『土偶を読む』がなぜかくも評価(「サントリー学芸賞」受賞とか)されたのかといったあたりも、ようやっと「なるほどねえ」と思えたりしたものですから。そこにはおよそ土偶研究とは関係の無い議論が含まれたりもしていたのですなあ。
土偶の造形が何かしらに似ていると気付いたことを、「これ、似てるよね」と言うこと自体、個々人の勝手なわけですが、学術的に妥当な分析・検討がなされていない説に対して、表立って考古学者が反論するのは土俵が違うとことなのでしょう。例えばですが、「幽霊はいる」ということを科学的に証明しましたといった本が出てベストセラーになったとき、「ああ、幽霊はいるんだ」と考える読者が出ることは想像できますけれど、言ってみれば「トンデモ本」の類と思しきところへ、学者が本気で「そうではない。科学的にはこうだ」と切り込むことはおそらく無いでしょうしね。
本書を手がけた編著者は、大した検証もなされていない土偶=植物(や貝)の精霊イメージ説に対して、ベストセラーになる=世の中に広くその説が正しいと思い込む人が出てくるであろうことに義憤(?)を感じたのかもしれませんですね。ただ、世の中にごまんと存在する「トンデモ本」にいちいち反論する学者はいないわけで、スルーする、静観するうちにいつしか鎮静化するという見方でもありましょうか。ですので、売られた喧嘩を買ったのは学者ではなかったと。
前半を読んでいた限りでは「要するにダメ出ししたいのであるか…」とうんざり感があったところながら、もしも本書を手にすることがある方は後半をこそ読むべきなのだろうなあと思ったものなのでありました。とりわけ最後の一章、「知の「鑑定人」 専門知批判は専門知否定であってはならない」は、『土偶を読む』が(同書の本質的でないところで)その扱いにこじれた状況が生じたあたり、よく分かる気がしたのでありますよ。