かくて多治見市美濃焼ミュージアムを訪ね、「美濃焼1300年の流れ」を辿るという本丸の常設展示へいざ。

 

美濃焼の産地は、現在の岐阜県多治見市・土岐市・瑞浪市・可児市を中心とした地域です。美濃焼とは、ひとつの技術名称を指すものではなく、この地域で生産されたやきものの総称です。この地域の地形は窯業に適しており、原料の陶土や燃料の薪にも恵まれました。そのため、約1300年前から時代のニーズに応じて、多様なやきものを生産し続けています。

そも美濃焼1300年と聞いて、それほどに昔から?と。日本六古窯にも数えられておりませんが…というあたり、解説を続けて読んでいきますと…。

陶磁器の一大産地である愛知県の瀬戸窯の影響から、隣接する美濃産の陶磁器も「セトモノ」として扱われていました。しかし、現在の美濃は瀬戸をもしのぐ世界有数の焼き物の産地へと成長し、日本の日用食器のシェアは美濃焼が全国一位を誇っています。

地理的な近さもあって瀬戸のやきものと一緒くたに「せともの」扱いされてきたことには忸怩たる思いがあるようで、表現ににじみ出てますなあ。もっとも、日用食器はどこの産であっても十把一絡げに「せともの」と呼ばれたのは昭和の時代まで確実にありましたですよね。埦を売る店はせともの屋と言われていたくらいで。

 

さりながら、美濃焼の実力は知る人ぞ知るだったのでしょう。先に「日本六古窯にも入っていないし…」とは言いましたですが、Wikipediaに「圧倒的なシェアを占める美濃焼は含まれない。美濃焼以外にも伝統的な焼物があることを紹介する目的で「六古窯」を選別したためである」てな記載を発見しますと、判官贔屓と申しますか、美濃焼に肩入れしたくなったりするところです。ただ、古墳時代にまで遡る猿投窯から始まって瀬戸へ、美濃へと拡散した兄弟分であることは確かでしょうなあ。

 

ともあれ、美濃のやきものは奈良時代の須恵器作りに始まるようですけれど、釉薬無しの須恵器に代わって平安時代には猿投窯で「人工的に釉薬を施した灰釉陶器」が作られるようになり、九世紀後半に美濃窯は灰釉陶器の一大産地に成長していったとか。今日に続く、全国への供給はすでにこの頃からのようです。もっとも灰釉陶器は当時の最先端技術で焼かれたのでしょうから、もっぱら富裕層向けだったようですが。

 

 

こちらは多治見市の生田1号窯から出土したという「灰釉広口瓶」で10世紀頃(平安時代中期)のものであると。ちなみに「灰釉」というのは「草木の灰を水に混ぜた釉薬」とのことですが、中国の青磁を写したとも言われる色合いはなるほど珍重されたであろうなと思わせるものがありますですね。

 

 

一方で「庶民に向けて量産された」というのが上にある「山茶碗」であると。「山中に遺る窯跡に大量に投棄されていることからその名がつけられました」とは、庶民向けのものが大量生産品であるのは遥か昔からの話なのですなあ。「美濃では平安時代末期から約四〇〇年もの長期にわたって作られ続け」たとなれば、超の付くロングセラーではなかろうかと。ただ、そうした時期にライバル?瀬戸ではその後の両者の運命に関わるやきものが生産されるようになったようで。

 

 

当時あこがれの中国陶磁を模倣して、瀬戸窯では「古瀬戸」と呼ばれる高級施釉陶器が生み出されたのですな。これにより「全国的な窯業地として不動の地位を手に入れ」た瀬戸の陶工たちは、十五世紀になりますと近隣の美濃でも古瀬戸を焼くようになったとか。せともの全国区への道筋のひとつでしょうかね。上の写真の花瓶(らしいです)は15世紀のものということですので、美濃で焼いた古瀬戸なのでしょう。釉薬の透明度が格段に高まっておりますなあ。

 

やがて時代は室町から安土桃山へと移っていくわけですけれど、先に読んだ『古田織部の正体』などの中では当時の茶会のようすを記した史料がたくさん紹介されて、その場で用いられた茶陶がどのようなものであったかに触れられていたのですね。取り分け古田織部がらみで美濃焼は重用されたはずながら、記録ではおよそ「瀬戸モノ」といった扱いになっている。美濃の陶工たちの思いたるや…と思ったりしますですが、茶陶への製品供給では全国的にも一頭群を抜いた創意工夫があった美濃焼の世界、そのあたりを次に振り返っておきたいところです。