先に長崎県美術館を訪ねた際の話としましては、その「スペイン・コレクション」のことにばかり終始してしまいました。ですが、同時に長崎ゆかりの芸術もまた同館コレクションの柱であることから「2022年度新収蔵作品」の展示も行われていたのですな。今現在活躍中の作家の作品もある中で、ひとつ目を止めたのが津上みゆきの連作でして、連作というのもそれはそのはず、朝井まかての新聞連載小説に寄せた挿絵であるということですのでね。
作者の津上自身は長崎ではないものの、挿絵を寄せた新聞連載小説『グッドバイ』が長崎の女性商人を描いたものという関係で、挿絵作品がこちらの美術館に収蔵されたのでありましょう。風景画を得意とする画家ということで、長崎の各所を描き出しているわけですが、実にスタイリッシュという以上に、抽象との境目ぎりぎり(時には踏み越えている?)で実に印象的。おらんだ坂を描いた一枚などは「何と大胆な!」と思ったもので。
とまあ、そんなふうに記憶に留まっていたものですから、いっそのこと朝井まかての『グッドバイ』を読んでみようということに。ただ、手にした朝日文庫版には新聞連載時の挿絵はひとつも収録されてはいないのですけれどね。文庫版表紙カバーに見える、大海原を帆船がのどかに過ぎゆく情景も、全く新しく付けられたもののようで。
ともあれ、小説『グッドバイ』のお話です。カバー裏面の物語紹介には、こんなふうにありましたですよ。
長崎の油商・大浦屋の女あるじ、お希以――のちの大浦慶。黒船来航騒ぎで世情が揺れる中、無鉄砲にも異国との茶葉交易に乗り出し、一度は巨富を築くが、その先に大きな陥穽が待ち受けていた――。実在の商人・大浦慶の生涯を円熟の名手が描いた、傑作歴史小説。
朝井まかて作品はこれまでに『雲上雲下』と『朝星夜星』の二冊を(たまたま)手に取り、いずれも面白かったという印象は残っておりますが、この作家が「円熟の名手」と言われる存在であったとは知るよしもなく…。ま、直木賞をはじめとして数々の文学賞を受賞していたりするようですけれど、ちいとも知らなかったものですから。
それはともかく、長崎の商人・大浦慶という人、女だてらに(あくまで昔風の言い方をしてみただけで、他意はありません)大きな海外交易を行って、Wikipediaによれば「長崎三大女傑のひとり」に数えられているとは、よほどの「こわもて」かと想像してしまったり。さりながら、同じWikiのページにある写真(1860年代撮影とか)を見て「怖るるにたらず」(笑)と思うと同時に、本書で描かれる主人公は才覚豊かながら失敗も多い、至って好人物に思えてしまいますなあ。先に読んだ『朝星夜星』に登場するゆきが思い出されるところです。長崎を背景に、二人ともこてこての?長崎弁で話すところもまた。
油の商いが専門の大浦屋ながら、ある伝手で外国商人から茶葉の買い付けを依頼された慶は、茶葉の海外輸出が商売になるものと思いつくのですな。陰ひなたに(と、これが文字通りでなるのは物語の後半で明らかになってきますが)慶を支える古参の番頭が散々に諫めるも、もうどうにも止まらない。帰国するという外国人に茶葉の見本を託して注文を心待ちにしたわけです。
一年、二年、待てど暮らせど音沙汰は無し。諦めかけたときに思いもよらぬ大量発注がイギリス商人から寄せられることになるのですな。しかし、イギリスしか「紅いお茶」しか飲まないという聞いているのに緑茶の大量発注とは…と思えば、扱うのはイギリス商人ながら輸出先はアメリカだということで。アメリカではボストン茶会事件以来(といって1773年の事件から相当に時が経っておりますけれど…)、イギリスとの間の茶葉の直取引に支障をきたし、その分を第三国から運ぶことで賄っていたというような背景もあるようで。それでも、緑茶は緑茶なような気がするも、アメリカ人は緑茶に砂糖を入れて飲むのだ…てなことでもあるようで(本当ですかね…)。
結果、大浦屋は茶葉の海外交易で大富商となりますが、好事魔多し。金のあるところに新たな儲け話を背負って現れる輩がいるものです。それでも、熊本藩庁お墨付きという点を信じてタバコの大量取引に一枚噛んだ慶は、まんまと一杯食わされることに。資産も信用もがた落ちとなるのですが、それで終わらないのが大したところでありましょう。
幕末の長崎は海外からの船の出入りが多くあったわけですが、国として海外への門戸を開くということとは別に、個人の外国への思いも解き放ったことになりましょうか。大波止で外国船の入港に目を瞠る人だかりの中に、幼い頃から身を置いてきた慶は、それを通じて異国への思いを募らせ、いつかは異国船に乗って外国へ行ってみたい、そうでなくても海外との取引を自ら担ってみたいとの思いをだんだんと募らせていったところへ、開国となっていったのですから。タイトルは新しく開かれた世を目の前に、昔に向かって「グッドバイ」と言う主人公のつぶやきなのでしょう。
敢えて没落後の回復状況(横浜製鉄所(後の三菱重工の横浜ドックでしょうか)への出資とか)は本書の物語に譲るとしまして、毎度のことながら「これは実話に基づくフィクションです」といった作品作りのタネはたくさんあるのだなあと、思ったことだけは確かなことで。考えてみれば、先の『朝星夜星』のゆきや本書の慶あたり、朝の『連続テレビ小説』(昨今では『朝ドラ』ですか)の主人公にぴったりな気がしてますが、いかがなものでありましょうかね。