なかなかやきもの関係の話に入らず、恐縮です(笑)。新幹線で名古屋へ出た後、美濃焼の里へ向かうには中央本線(いわゆる中央西線ですな)に乗り換えて…となるわけですが、名古屋市内に一カ所だけ寄り道をしたのですな。名古屋市美術館の開館35周年記念として「福田美蘭―美術って、なに?」展が開催されておりまして、公式HPに「※本展は巡回せず、名古屋市美術館のみの開催となります。」とお断りが書かれてあったりもしたもので、つい。

 

 

名古屋には何度も来ておりますがほとんどが出張であったものですから、名古屋城をはじめとした観光地や数々の美術館も訪ねたことが無いのでして、一度はどっぷり名古屋も…思いつつも、今回は取り敢えず名古屋市美術館のみということに。広い公園の片隅にその建物はありましたですよ。

 

 

ところで本展の主役である福田美蘭という作家につきましては、予てあの!福田繁雄の娘さんでアーティストという認識しかありませんで、どんな作品があるのかといったあたり、皆目知識は無かったという。さりながら、しばらく前に群馬県立近代美術館のコレクション展で見かけた作品に「!」と思って以来、いささか気になる存在となっていたのですな。名古屋市美術館HPでは、こんな作家紹介がされておりましたよ。

現代社会が抱える問題に鋭く切り込み、ときにユーモアを添えて絵画化して見せたり、意識して「もの」を見ることを促したり、東西の美術、日本の伝統、文化を、意表を突くような手法であらわしたりして、私たちの既成概念を打ち破ってきました。そして現在も、絵画の新たな可能性に挑み続けています。

「ユーモアを添えて」とか「意表を突く」とか言うあたり、父親譲りの要素でもあろうかと思いますですが、既成概念を打ち破る…とは肩肘張ってしまいそうに思えるものの、アート作品に触れるときの視点、視座の持ち方が一辺倒ではないことを教えてくれるようなところもあるのですよね。フライヤーにある一作なども、(江戸期の判じ絵のようで)少々ユーモアが勝っていますけれど、そうした傾向にあるものでしょうなあ。古来、吉祥の図案として描かれ続けてきた「松竹梅」がこの作家の手にかかるとうな重の特上、上、並(お店で松、竹、梅と称されているのはよく見かける話で…)となっておりましたよ。

 

 

また、絵画という静止した画面に動きを感じさせるようなこともやっておりますね。こちらは言わずと知れた菱川師宣の『見返り美人』をモティーフにしていますですが、モデルの女性がくるくると動いている、イタリア未来派のジャコモ・バッラが描いた『鎖に繋がれた犬のダイナミズム』までのせわしない速さとは言いませんが、画面上に動きを感じたりもします。ですが、一方でモデルが動いているというよりも、絵師の側がモデルの周囲を見て周っているのだとも受け取れますですね。あたかも鑑賞者に絵師の視点が与えられているような。

 

 

こちらもまた思い出すところのある人物像かと。マネの『草上の昼食』に描かれた人物ですけれど、本来は裸の女性の視線は鑑賞者の方に向けられているところ、この絵では横を向いている。つまり、本来作の中では画面右手に配されている(ここには描かれていない)人物からの視点で描かれているのですなあ。こうした視点の持ちようは絵画の平面世界には奥行きある実態の空間があることを、今さらながらに想起させてくれるわけですね。鑑賞者があたかも絵画の中に入り込んでいるような感覚をも得られるところかと。

 

そこには物語性が喚起されることにもなりますけれど、絵画世界としての物語とは別にもっと現実的なところも隠れているのですよね。わざわざ考えてみることも無い場面ながら、実際としては大いにあり得ることでしょう。例えば画家が求めるポーズを取り続けるのに疲れたモデルが休憩するようなことも。

 

 

これらのことを発想の一助として、見なれた絵画作品であっても(そうでなくても)、さまざまな見方ができることに気付かせてくれるわけですね。で、ちと違った傾向の作品にはこのようなものも。

 

 

その昔、俵屋宗達が扇絵を描いて人気を得ていたように、扇面そのものが絵画として愛でられる中、さまざまな扇面を貼り交ぜて屏風に仕立てるようなことも行われていましたけれど、現代になって「扇面貼交屏風」を見る感覚とは異なって、当時は宗達や琳派の絵師たちはいわば流行最先端のデザインで勝負していたのでもあろうかと。そうなると、扇面に描かれるところはその時代(の流行など)を映す鏡とも見えてくるわけですが、それを現代に持ち込んだらどうなりましょう…という趣きがこちらの作品になりましょうか。

 

街頭で配り散らされ、とても愛でる対象とも思われない団扇の数々ですけれど、形は昔々の扇面貼り交ぜを思わせながら、かくもたくさんの使い捨て団扇が配されたところを見ますと、消費社会の一端に思いを馳せることにもなろうかと思うところです。古典の形に現代を持ち込んだ作品としてはこちらも。

 

 

これまたよく知られた『誰が袖図』の形を踏襲していまして、そもそもの作品自体、衣桁に掛けられた衣服が画中にはいない人の気配、存在を伝えてくるものですけれど、ここで衣桁に掛けられている服やら脇に置かれた道具を見れば、『白雪姫』、『魔法使いの弟子』、『不思議の国のアリス』などを扱ったディズニー・アニメのキャラクターが浮かんでこようかと。ともすると古来の『誰が袖図』では時代的に想像を膨らませにくくなっていたとしても、あたかもディズニー・キャラたちの楽屋でもあろうかと思える画面からは、そのキャラクター自体の存在をイメージしやすくなっているのではないですかね。もっとも、この作品における作者の意図はそれほどに単純なことでないのは、展示解説にこんな一文があることでも分かるのですな。

画中の屏風には、過激派組織ISILがジャーナリストを殺害したという事件(2015年)の現場風景を描いた。ディズニーキャラクターはアメリカの富と権力の象徴であり、ソーシャルメディアを活用する過激派組織の存在に不穏な空気が漂う。

ここまでの読み解きは誰にも容易いことではなかろうと推測しますけれど、現代アートの作者としては政治や世界情勢にも関わる姿勢無しではいられないのでもありましょうね。もそっと直接的な作品にはこのようなものも。

 

 

作品タイトルは『ブッシュ大統領に話しかけるキリスト』と。2001年の同時多発テロの報復とばかり、ひたすら戦争に突き進もうとするアメリカ大統領を説得すべく語り掛けるのはもはやキリストしかいないのではないかということですが、困惑するブッシュの表情に「困ったお人だ…」という感情が現れており…。「ショック・ドクトリン」が世界中で横行する中では、どうも他人事とはいえないところでありましょうね。

 

ということで、現代アート、コンテンポラリーアートではともすると鑑賞者を置き去りにするような作品が生み出されますけれど、一見した見た目ではとっつきやすさを醸している福田美蘭の作品なればこその発信力があるような気もしたものなのでありました。