「風神雷神図屏風」の雷神はなぜ白いのか。
このサブタイトルに釣られて『宗達絵画の解釈学』を手に取ったのですけれど、
「日本文化 私の最新講義」というシリーズの一冊は学術図書とまでは言えないであろうものの、
なまなかな半可通には付いて行きにくい内容ではありました。
そもそも雷神というのは赤いものとして描かれているのが通例のように、
一般にも赤鬼、青鬼と並べて言われるように、雷神は赤、風神は青(緑)というのが相場だとか。
すでにしてそのようなことさえ知らない者には、考えてみれば「なぜ白いのか」という問いに
興味をそそられる言われはないわけですが、「そも赤ではなくてなぜ白か」ではなくして、
単に白で描かれたことに意味があるのだろうなあ…という点が気になったわけではありまして。
と、それはともかくとしてずばり、通例と異なってなぜ白かという点に行ってしまいますと、
長らく大和文華館の学芸員を務めておられた作者の研究によれば、本書の帯にあるとおりのようでして。
曰く、「雷神は、無二の親友・角倉素庵を追善して描いたものだった」と。
で、それが何故白い雷神と関係があるのか…ですなあ。
角倉素庵は江戸期の豪商にして儒者であって、書にも長けた当時一流の文化人でもあったようですが、
晩年になって癩を病み、京都の西に隠遁生活を送ることになったそうな。
その当時、癩病(ハンセン病)は伝染が怖れられたことから患者は隔離され、
人との関わりを一切遮断するようにさせられていたのだとか。
素案の墓所は化野の無縁仏が並ぶようなところに置かれたそうでありますよ。
予て懇意にしていた宗達は素庵を捨て置くことはできず、
素庵校訂による漢詩文集『本朝文粋』の出版に手を貸したということなのですな。
これが平安以来の王朝文化を語り伝えるものと、
江戸幕府の権力に押しまくられていた後水尾天皇の目に止まり、晴れて宗達は法橋に叙されることに。
それまではどちらかというと、扇や色紙を画く職人集団の親方として俵屋を切り盛りしていたわけですが、
法橋となることで一目も二目も置かれる絵師として認められ、宗達作として今に伝わる屏風絵などの制作に
携わっていったようでありまして。
こうしたことからも素庵に対する宗達の恩義は尽きることがないわけでして、
その素庵を追善したいとの思いから「風神雷神図屏風」を描き、手元に置き続けていたと。
まあ、背景はそういうこととして、なぜ雷神は白いのか。
素庵が病んだのは当時白癩と呼ばれ、皮膚が白くなるという症状があったということで、
この白の言われは仲間うちであれば、皆想像の付くものだったようですね。
では、なぜ素庵に雷神の姿を与えたのか。
雷神は古来、菅原道真の怨霊が見せる姿であったとも伝わるそうでありますね。
古今の文化、歴史に該博な知識を持っていた素庵も、そして宗達自身も官公には畏敬の念を抱いており、
怨霊とはいささかあんまりではありますが、素庵を仮託する姿として宗達が選び出したもののようです。
が、道真の化身としての雷神はもともとワンオペであったそうなのですなあ。
今でこそ、「風神雷神図屏風」は宗達が描き、光琳、抱一がなぞったことで知られるあまり、
風神と雷神はペアで動くものと思い込んでしまっておりましたが、そうではないようで、
並べて描く図案はむしろ宗達の考案したところであるのだとか。
ちなみに風神の方は宗達自身なのではということのようですな。
と、ここまで関わり深い宗達と素庵、その二人の関わりの深さを探る中で浮上するのは
驚きの新事実?!、「鶴図下絵和歌巻」という重要文化財とされる作品の成り立ちについてです。
本阿弥光悦の書蹟の代表作ということでも従来から著名な1巻。装飾芸術家としての俵屋宗達(活躍期、1602−1635)の真骨頂がみごとに発揮された作品である。
京都国立博物館の作品紹介文にもこのようにありまして、
宗達描くところの下絵の上を滑るように描き出された筆文字はかねて本阿弥光悦作とされているわけです。
ところが、本書の「最新講義」たる所以として研究の新しい成果として語られるのは、
書を付けたのは本阿弥光悦ではなく、角倉素庵であるということ。
本書にはその検証過程が示されておりまして、読んでみればなるほど…と思わざる得ず。
気になる方はどうぞ本書に当たってくだされば、「なるほど」と思うところではなかろうかと。
とまあ、なかなか半可通には読み通しにくいものではありましたですが、
読み終えてみれば「ほお!」と思うことがあったわけでして、俵屋宗達という謎のベールに包まれた人物が
少し姿かたちをはっきりさせたようにも感じられたものでもありました。
また、角倉素庵は名前を知るだけ程度でしたが、気にかけておきたくなりましたですよ。