長崎といえば…(ホテルから単に近いということで)まず中華街のお話をしましたですが、同様に長崎といえば教会でもありますねえ。浦上の方には以前、平和公園ともども出かけたものですから、このほどは大浦天主堂の方へ。ただ、グラバー園と隣接していることからして、こちらにも前のときに行ったのかもとは。覚えていないのは、堂内のステンドグラスで知られるものの、内部が撮影不可であったが故に記憶から飛んでしまっているのかどうか…。いざ目の前にすると、やっぱ来たかもと思ったものでありましたよ。

 

 

のっけから余談になりますが、聖堂へと登る石段の左手側に回り込むと祈念坂という坂道につながるようす。もそっと進むと急坂になり、作家・遠藤周作は長崎を訪ねるとこの坂道に腰を下ろして海を眺めやっていたのだそうな。

 

…この大浦天主堂の左の坂道はその後、長崎に行くたびに私の欠かすことのできぬ散歩道となった。朝、早くここを歩き、夕暮、ここを歩き、いつもそこは静寂で誰からも邪魔されることなく、長崎湾を見ることができた。(遠藤周作『切支丹の里』)

 

…てなことが新潮社「とんぼの本」の一冊『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』に紹介されている坂道なのですが、今回は足を挫いた同行者がおり、そも天主堂の石段だけでも難儀なことですので(従って、この後にグラバー園に寄ることもなし)、ちらり坂を見上げただけでゆるゆる石段を登ることに。

 

 

途中、踊り場状のところから左の園地へ出て、ひと休み(捻挫した足を抱えていては大事にせねばなりません)。ここでは池の中に錦鯉が泳ぎ、傍には石灯籠が置かれてある一方で、中央奥にキリスト像、そして右側には教皇ヨハネ・パウロ二世の胸像が置かれた異空間(妙な空間?)でありましたよ。

 

 

ただ、もそっと右手に目を転じた先に置かれたモニュメントこそが大浦天主堂の歴史を最も如実に伝えるものとなりましょうかね。いわゆる「信徒発見」のレリーフがあるのでして。

 

紀元一八六五年(慶応元年)二月十九日、仏人宣教師プチジャン神父(後の初代長崎司教)により大浦天主堂が建立されたが、同年三月十七日 天主堂参観の浦上の住民等十数名が同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます。サンタ・マリヤの御像はどこ」と云った彼等は三百年に亘る厳しい迫害を堪え忍び、ひそかに守り伝えたカトリックの信仰を表明した。
日本キリスト信者のこの信仰宣言は史上に例のない事実として全世界を驚嘆させた。…記念碑文

豊臣秀吉も徳川幕府も切支丹禁制を打ち出して、当初こそ教えの広まりを抑えるべく迫害が続いたわけですが、やがて宣教師の来航が途絶え、潜伏キリシタンの「かくれ」状態がそれなりに定着しますと、もはや信者を根絶やしにしようという政策ではなかったような。もちろん見つかればご禁制破りということにはなりましょうけれど、彼らは彼らなりの信仰のありようを作り出していったのでありましょうね。幕末になって長崎が開港され、宣教師の往来が再開したところで、教会の側ではよもや信徒が残っていようとは…と驚きをもって迎えられたのですな。

こゝは日本の新しい教会の信仰と殉教と宣教の原点です。

そばに胸像が置かれた教皇ヨハネ・パウロ二世が大浦天主堂を訪問した際には、こんな言葉を残していかれたのだとか。とまれ、かかる劇的邂逅のあった大浦天主堂。入口のところには、信徒発見の翌年にプチジャン神父がフランスに発注し、「日本之聖母」と名付けられたマリア像が来訪者をやさしく見下ろしておりましたですよ。

 

 

信徒発見の際に、「マリア像はどこ?」と信徒たちが尋ねて示された像は堂内にあるということですが、あいにくと(有名なステンドグラスを含めて)堂内は撮影不可。ですので、この次には少々内部のようすに触れたのち、併設の博物館をじっくり振り返っておきたいと思っておりますです、はい。

 


 

 

と、長崎のお話が勢いづいてきたところではあるものの月日が経つのは速いもので、またまた月例で父親の通院を介助する日が巡ってまいりました。明日(10/11)はお休みいたしまして、また明後日にお目にかかる予定でございます。