大河ドラマでは、もはや今さら…とも思える徳川家康の生涯が取り上げられていますけれど、一方で昨今は関ケ原を描くのに、徳川方、つまりは勝者の側の視点ばかりでないのはちょいと前に読んだ『天下大乱』などでも言えることですけれど、そうした流れ(があるのかどうか…)の中で、石田三成の取り上げられ方も変わってきているのでありましょうか。
ちなみに今回のタイトルにもってきた「石田三成、愚か者」というのは、海援隊(坂本龍馬の、でなくして武田鉄矢の)が坂口安吾の『二流の人』を下に同タイトルの歌を作った中に出てくるフレーズなのですな。「二流の人」と言われているのは黒田官兵衛のことで、「も少し関ケ原の戦いを持ちこたえてくれておれば、九州から中央に攻め上って天下を狙えたものを…」という官兵衛の思いが「十万の兵士率いて敗れた石田三成、愚か者!」となるわけではありますけれど、まあ、昔の三成に注がれる目線は概してこんなところではなかったかと。
さりながら、才人として知られた三成が、いくらなんでもそんな先まで見通していたはずもなかろう…と本気で突っ込むことは詮無い話ながら、それほどまでに物事の先を読んだ人物として描かれていたのが、今村翔吾の『八本目の槍』だったのでありますよ。この作者は、先に読んだ『幸村を討て』でもそうですが、ひたすら伏線を張り巡らせて回収するのに妙味を感じているでもありましょうかね。
「八本目の槍」というのは、秀吉の柴田攻め、賤ケ岳の合戦の際に、子飼いの小姓たちの中で槍働きに秀でた七人が「賤ケ岳の七本槍」として知られるようになったことが前提にありますな。七福神ではありませんが、縁起の良い「七」という数字にあやかることで、賤ケ岳以前にも「七本槍」というまとめ方はあったようですが、中でも賤ケ岳の七本槍は代名詞のようになっているわけで。
で、縁起のいい「七」にするために、これに零れ落ちた人物がいる。要するにその八本目を石田三成に擬えているのですな。話の作りは、七本槍の面々を順に虎之助(加藤清正)、助右衛門(糟屋武則)、甚内(脇坂安治)、助作(片桐且元)、孫六(加藤嘉明)、権平(平野永泰)、市松(福島正則)と取り上げて、あたかも連作短編のようですけれど、先にも触れましたとおり、折々に伏線回収していく中、さらに最後に市松の章でとりまとめる中で常に裏で筋を描いているのが佐吉(石田三成)という次第。なるほど八本目の槍であるかと。
ということで、七本槍とひとくくりにはしても、その後の存在感で顕著なのは加藤清正と福島正則くらいかもしれないところにあって、その他の面々の人となりといいますか、そのあたりには目が向く機会とはなりましたですな。もっとも、作者なりの大いなる想像力(妄想か?)が遺憾なく発揮されていることを忘れてはいけんわけですが。
ともあれ、そんな想像力の賜物として話としては面白く読んだものの、三成の見通す先というのが戦国時代の収拾を遥かに超えて、政治的には近現代につながるような先読み具合(具体的には触れませんが)であるのは「どうであるかなあ」と。この点は、『どうする家康』で瀬名が描いてみせた未来予想図が当時として思い至るものであるのかな…と思ったことと似ている気がしますですね(未来予想の内容は、瀬名と三成では全く違いますけれど)。
21世紀に生きる者は当然に16世紀以降の歴史の流れを知っているわけですが、それを戦国時代当時の人たちに予見させる、その予見させ度合いに、些かのやりすぎ感を抱いたりもするのでありましたよ。ま、そう意識して読む分には面白いのですけれどね。