先日、『パリの音楽サロン ベルエポックから狂乱の時代まで』を読んだ折、パリの文化サロンがいかに新たな芸術の創造に寄与していようとも、誰でもが顔を出せる場所ではなかったのであるなあと改めて。もちろん、尖った才を誰かしら著名人に見いだされ、サロンへと導かれるケースはあったでしょうけれど、サロンに集まるのはそうした隠れた才能ばかりではないわけでして。なんとなれば、大都会パリでの成功を夢見て集まってくる有象無象がいたでしょうから。

 

要するに、格差ある社会の中で何とか階層を飛び越えたいと考えている若者たちがいたわけですね。そんな彼らにとって共通の願望というのが馬車を所有することであったとして、先の本で紹介されていたのが『馬車が買いたい!」という一冊でありました。パリやフランスを専門とする関係から、各種の展覧会などでも名前を目にすることのある鹿島茂の著作でありました。

 

 

それにしても、サロンが上流社会に開かれたものであるにせよ、馬車とはなんとも大げさな!と思うところでもあろうかと。仮に空腹を水で膨らませ(といっても、水自体も買うのでしょうが)、有り金はたいてそれらしい服装を調えさえすれば、俄かダンディの出来上がりとはいかなかったのかと思うのは、19世紀(とりわけオスマンの都市改造前)のパリを知らなすぎるということになるようで。ちなみにユゴーの『レ・ミゼラブル』にはこんなところがあると、本書に紹介されておりましたですよ。

…そこでは、音楽や舞踏会などがあった。そういう晩には、マリユスは新しい服を着て行った。しかし、そうした夜会や舞踏会には石も割れるほど凍っていた日にしか行かなかった。なぜなら、馬車に乗る金がないし、鏡のように光る長靴のまま、先方に到着するのでなければいやだったからである。

『レ・ミゼラブル』のマリユス・ポンメルシーは、地方から成り上がり願望を抱いてパリにやってきた若者…とは異なりましょうけれど、夜会やサロン、つまり上流階級の集まる場に向かうには馬車が必要だということを言っているわけですね。なんとなれば、地面が凍り付くような寒さの日でもないのにパリの街なかを歩いていけば、新調した服も磨き上げた靴も泥だらけになるほど、パリの町は汚かったということで。

 

もちろん、当時のパリにおいて馬車は所有しなくても、上の引用で「馬車に乗る金がない」と言っているように、辻馬車(タクシーのような)や貸し馬車(レンタカーというより、御者付きだったりするのでハイヤーかと)を利用する手もあったわけですが、上流のお屋敷に馬車で到着すれば衣類に汚れはないものの、そこはそれ、来客の到来を待ち受けている家政婦ならぬ従僕は見ていた…となるわけですね。今来たお客様は貸し馬車でご到来だよと。

 

その頃の金持ち連にとっても、馬車がステイタスシンボルであるとは共通認識だったわけですから、いかに豪華であるか、あるいはTPOによって使い分けられるようにタイプの異なる馬車を何台所有しているか、このあたりが差の付け所でもあったようですしね。よその馬車は常に関心のまなざしにさらされていたようで。

 

馬車持ちの側としても、馬車を見せびらかす、さらにはそれに乗車する貴婦人の美貌や豪奢な服装を見せびらかすのがようではありますけれど一般化していて、「天気のよい日曜にシャン=ゼリゼ大通りに豪華な馬車が集まってきて、貴族や大ブルジョワがこれみよがしに富を見せびらかすという習慣」があったのだそうでありますよ。

 

こうしたパレード状態のときには乗っている人の姿も見せなくてはなりませんので、馬車は当然に無蓋幌付き(幌が付いていないのは安っぽいわけで)のカレーシュと呼ばれるタイプなどが使われるわけですが、夜会などに出かける際にはむしろ有蓋(時に人目を忍ぶにも好都合)のクーペとかベルリーヌというタイプなどが最適。さらに、実用的に金持ちご主人ひとり(もちろん抱えの御者付き)で移動したいときには、車体が軽くて軽快感のあるキャブリオーレやチルビュリーが重宝した…となりますと、やはり複数台の馬車が必要だということに頷けなくもありませんですが…。

 

ちなみに、ロンドンでシャーロック・ホームズが「馬車を!」と言って、ワトソンが呼び止める辻馬車はキャブというタイプだそうな。客が乗り込む部分の後ろに御者の立ち位置が設けられていて、後方から長い鞭を振るって馬を走らせるものでして、言葉としては後のタクシーをも意味するようになりますな。当然にフランスにもこのタイプが導入はされるも、パリジャン、パリジェンヌにはどうも不人気で定着しなかったようです。彼我の違いはこの辺にもあるような。

 

と、『馬車が買いたい!』というタイトルなだけにもっぱら馬車のことばかり記しておりますが、本書の意図のひとつとして、19世紀フランス文学に登場するさまざまな馬車のタイプの違いを知ることで、物語や人物像の理解が格段に深まることを指摘しておるのですね。確かに、翻訳小説を読んでいて、馬車とあれば「ああ、馬車ね」と(たとえ、どんなタイプであるのかという注釈が付いていたとしても)分かったつもりになって、そのまま読み進んでしまうところながら、馬車は記号であるとも言うわけです。記号には意味がありますものね。それをスルーしてしまっていたわけで。

 

そうした物語理解のためには、主人公たちが動き回る当時のパリのようす(今のパリを思い浮かべても別物状態)を知っておいた方がよろしいとして、本書には馬車の話ともども、当時のパリの世相、風俗、町のようすがさまざまに記されていて、これもまた興味深いところでありましたよ。

 

辞典的といってはなんですが、この手の本は手元に置いて、折に触れぱらぱらと…というのがいいのかも。ま、バルザックやフロベールなど19世紀フランス文学を読むには、かもですけれどね。