近くの図書館の新着図書コーナーで見かけて手にとった岩波新書の一冊、『パリの音楽サロン ベルエポックから狂乱の時代まで』はピアニスト・青柳いずみこの著作。どうやら、文筆家としても活躍されておられるようですなあ。

 

 

19世紀から20世紀初頭にかけて、パリではサロン文化が花盛り、というよりサロンが新しい文化を創り出していた…とは、さまざまなところから聞き及ぶわけですけれど、帯の惹句を見れば改めてなるほどと。

リヒャルト・シュトラウスやマーラーを支援したグレフュール伯爵夫人、ロシア・バレエ団を支援したミシア・セールとココ・シャネル、サティに『ソクラテス』を書かせたポリニャック大公妃、コクトーとピカソとサティによる『パラード』の生みの親ヴァランティーヌ・グロス……

著者がピアニストであって、タイトルにも「音楽サロン」とはものの、事は音楽のみにとどまらず、詩人や画家たちをも巻き込んだ広い意味での文化創造空間だったとも言えましょうか。上に名前の出てくるポリニャック大公妃が主催するサロンでの直接的なようすではありませんですが、彼女のサロンがらみで行われたイベントはこんなふうに紹介されていたりするのですな。

三月二一日には、アドリエンヌ・モニエの『本の友』書店でシュザンヌ・バルグリーの歌とサティのピアノで試演会が催されている。聴衆が多いのでマチネとソワレの二回上演し、ジッド、レオン=ポール・ファルグ、クローデル、ジャム、ヴァレリー、ジョイス、ピカソ、ブラック、プーランク、ストラヴィンスキーらが喝采を送った。

文学、美術、音楽それぞれの世界で名の知られた、あるいは新進気鋭の才能が集まって、多かれ少なかれ、それぞれがポリニャック大公妃(のサロン)との関わりがあったことでしょうなあ。まあ、貴族の奥様ともなれば、各方面に影響力が及ぶと想定して、集まる方には「あわよくば、支援の糸口でもつかめるか」といった目論見含みでありましょうし、また各所でサロンが開かれる中では主催者としてどんな人物(才能)を集められるかを競っていたという側面もありましょうね。

 

と、ここで貴族の奥様と言いましたですが、出自としてはアメリカのシンガーミシン創業者の娘ということで。確かに大富豪ではあったのでしょうけれど、元は貴族でないところに野心の源のようなものを感じてしまうところです。本書に紹介されておりますように、プルーストによれば「サロンを開くことのできる裕福な階層で、何よりも貴族の称号を持たない」人々をブルジョワと定義できるようですから、大富豪というだけでサロンを設けることはできましょうが、競争には箔を付けて臨みたい向きもたくさんいたでしょうし(ちなみに、「ブルジョワ」の本来は並大抵の金持ちではなさそうですね)。

 

とまあ、そんなこともあってフランス・パリのサロン文化は大輪の花を咲かせたわけですけれど、ここでふと思うのは同様の文化が他にもあったのであるなと。これは本書が触れる範囲を超えていますので、想像をめぐらすしかないところですが。

 

英国ロンドンにも何かしら類似の機能(あるいはまったく同じようなサロン文化)があったかもしれませんが、むしろ社交の世界としては、(もっぱら貴族や大富豪の奥様方が主催する)「サロン」よりも(男性のみの世界で女性はえてして立ち入りができなかった)「クラブ」(もちろん、現代の日本で使われる意味ではありませんが)の方が思い浮かぶような気も。

 

イメージとしてサロンのようなわいがや感ではなくして、静かに思索にふけりつつ時折仲間と情報交換といった雰囲気がクラブでしょうか。それだけに、るつぼが弾けて新しい何かが噴出するといったような、新しい文化創造には縁遠いかもですが、クラブはクラブで科学技術などの点で何かしらの功績につながるようなことはあったかもしれません。

 

世紀末あたりから20世紀初頭にかけて、英国に文化が無かったとまではいいませけれど、パリが文化的に百花繚乱状態だったことに比べると、ロンドンのようすはちと異なっていたように思うのも、サロン文化の広がり方だったのであるかなと、想像したりもしましたですよ。

 

何度かの革命を経て、19世紀末には王政・帝政ではなくなっていたフランスのパリでは、階級色の強いサロン文化が活況を呈し、一方、王政を存続させていた英国のロンドンではまた異なる展開であったとは、不思議なものですなあ。と、ここでふと思い返してみれば、時の英国はヴィクトリア朝であって、女王自ら良妻賢母を推奨していたとなれば、そこに考えるヒントがあるのかもと思ったり。すっかり本書の内容からは離れてしまいましたけれどね(笑)。