ちょいと前に朝井まかての『朝星夜星』を読んだ折、主人公夫婦とは別に、彼らを取り巻くさまざまな明治の有名人が登場していたことは先にも触れたとおりですけれど、その中に取り分けに気になった人物ががいたのですな。切れ者であるが故に「カミソリ」の異名をとった政治家、陸奥宗光でありますよ。

 

実は(といってうろ覚えながら)以前、足尾鉱毒事件に関わるあれこれに関心を寄せておりました時期に、時の能省務大臣であった陸奥宗光が被害を訴える農民たちに対してなんともすげない対応をしたような印象が残って、「なんだかななあ…」と思っていたわけです。が、『朝星夜星』の中では、幕末以来の不平等条約をなんとかせんならんとひたすらに考えていて、そのあたりが日本で初めてとなる西洋レストランを開いた主人公たちと、日本の真の開国とは?といったあたりで、心通わせることになる、ざっくり言えばいい人っぽく描かれて、「?」と思ったものでありまして。

 

とまあ、そんな経緯でもって、陸奥の人となりをもう少しと手に取ったのが中公新書の一冊、『陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯』なのでありました。

 

 

書名からも推測できますように、陸奥が成しえた功績はとにかくにも「条約改正」でありまして、個人的な関心事であった農商務大臣当時、足尾鉱毒事件との関わりという点では、かような一文、あるのみだったですなあ。

明治二三年一一月上旬には、(陸奥は)足尾銅山の視察に訪れた。次男の潤吉が養子となった古河市兵衛が経営しており、後に足尾銅山鉱毒事件で有名になる。陸奥は翌年、その件について議会で田中正造から質問を受けている。もっとも、田中が天皇への直訴という行動を起こし、世間の耳目を引くのは、しばらく先のことである。

「え?これだけ?」と思わずにはおられなかったですが、文中にもあるとおりに陸奥と古河は息子の養子縁組という強い関係があって、そも足尾銅山に陸奥は出資していたようでもあり、今では旧古河庭園として知られる庭と洋館も元は陸奥の別邸であったと。そんな関係があって、農商務大臣も無いだろうに…と思ってしまいますなあ。

 

ともあれ、元は紀州和歌山藩士の家に生まれた陸奥。父親譲りの才覚は、自らをして「世に出なければならない人物である」と目して、いたような。幕末期には坂本龍馬との出会いから海援隊に与して存在感を示し、土佐との人脈を深めますが、やがて明治になってからは伊藤博文、井上馨、山県有朋らと親しくすることで、実際に世に出ていくわけですね。

 

さりながら、藩閥政治という状況下、政策の点などでも自らの思うとおりにならないことがあると、すぐに辞表を出したりという作戦に出るのが常套手段だったようで。藩閥の壁が自らの才の発揮を邪魔しているという思いは、政府転覆を図った廉で禁固五年という目にあったりもすることに。

 

そんな紆余曲折を経た陸奥ですが、駐米大使であった折、メキシコとの間で平等対等な条約を結んだ経験が列強との条約改正に向かう意志を強くしたのでしょうか、ようやっとたどり着いた外務大臣就任でそのテーブルに付くことになるのですな。すべてが陸奥の功績ではないにせよ、幕末以来の条約改正が成ったことと陸奥宗光の名前は後々も結び付けて語られることになるわけですね。

 

かように外交畑にこだわった陸奥の政策というか、ふるまいには自らの立身出世欲がかかわったにせよ、本書でも「日本外交の祖」とまで言われるだけに、外交重視の姿勢は本書中のこんな一文にも表れている気がしたものです。

外交を支えるものとして、一般的に言われている武力ではなく、(国民外交上の)智識が重要であると主張した。そして、国際関係において武力は重要な要素ではあるもののそれがすべてではない、武力に至るまでに操縦の余地は十分にある、道徳による統制はいまだ不完全だがそれが絶無であると考えるのは誤りである、と(陸奥は)論じた。

取り分け明治という時代、19世紀後半ですけれど、いわゆる列強が軍事力を背景に帝国主義で世界を牛耳ろうとした中、日本においても「富国強兵」が叫ばれたわけですが、陸奥は「外交による武力の操縦」が必要であることを言っているとは、シビリアンコントロールを標榜してもいるような。

 

陸奥自身も武士の出であり、日清戦争においては政治の重鎮となっていた山県有朋が一軍を率いて戦地に出張っていくような、江戸時代を引き摺る軍事政権かくやの印象もある時代ながら、シビリアンコントロールを論じたことは気に留めてよいことのような。ただし、先にも自らの立身出世欲てなことに触れたですが、あまり軍事の分野に関わっていない陸奥が文官として自らの采配を振るうための術とも捉えられるところではありますが。

 

まあ、時代が時代だけに、毀誉褒貶、さまざまな部分がある人物たちが活躍し、陸奥もまたそうした人物たちのひとりであるにせよ、陸奥が上に引用したような言葉を残して100年以上経っても、寄って立つところは軍備、軍備と言っている現代の為政者たちには愕然とさせられる思いがしたものです。歴史は繰り返すといえど、歴史に学ぶのは良いところだけでよかろうにと思ったものなのでありました。