我がことながら今まで行ったことが無いことに「?」と感じるところではありますが、「木材・合板博物館」を訪ねて新木場まで出向いたからには、やはり立ち寄っておかねばなあと思ったのが、こちらでありますよ。

 

 

木立の奥にちらりと見えている建物がそれ、「都立第五福竜丸展示館」でして、東京都立夢の島公園の片隅にあるのですな。船体をそのまま保存するための上屋であるためか、展示館は独特の姿かたちをしておりますよ。

 

 

 

一見したところ、ノルウェーのオスロで立ち寄った「フラム号博物館」が思い出されたりしましたけれど、フラム号の方はナンセンの北極探検、アムンゼンの南極点制覇と絡んで顕彰するという明るい話題であるのに対して、第五福竜丸は水爆実験での被曝という負の部分を記憶に留めるものであるせいか、建物自体、形に類似性はあるにせよ、「石棺」(チェルノブイリ原発の原子炉封じ込め施設)が思い浮かんでしまったりも…。とまれ、中を見てみましょう。

 

 

一歩、館内へと足を進めますと目の前にはどおんと巨大な第五福竜丸の船尾が。今さらながら大きな船であるなあ…と、同時に木造船だったのであるなあとも(ここでまた木材の力を思い知ったりもするわけですね)。と、ここまで「第五福竜丸」のなんたるかは自明であるかのようにして来てしまいましたですが、改めて解説を引いておくことにいたします。

「第五福竜丸」は昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。木造船での近海漁業は、現在でも行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に、和歌山県で建造され、はじめはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被ばく後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、昭和42年(1967年)に廃船になったものです。
東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨禍がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました(昭和51年6月10日開館・東京都)

これを読んで今さらながらに思うところは「これって東京都の施設だったんだあ…」と。国のではないであるなということなのですけれど、考えてみれば広島平和記念資料館も「運営は広島市出資の公益財団法人広島平和文化センターが行っている」(Wikipedia)わけで、「ああ、国はやる気ないのであるなあ」と遅まきながら思い知らされるわけなのですね。

 

 

ただそうは言っても、被曝した船体は「貴重な学術資料として日本政府が文部省(当時)予算で買い取り」、やがて改修されて東京水産大学(現・東京海洋大学)の練習船「はやぶさ丸」となったそうな。

 

さりながら「1967年3月に廃船処分」となると、船体は「当時「ゴミの島」と呼ばれた夢の島に放置されることに。これは廃船翌年の1968年に撮られた第五福竜丸と当時の夢の島の写真(部分)ですけれど、「ゴミの島」と言われる理由は一目瞭然でありましょう。

 

 

この時代、都内では「東京ゴミ戦争」てなふうにも言われるゴミ処理の大きな問題を抱えておりまして、ひたすらにゴミ捨て場とされた江東区の埋め立て地は悲惨な状況にあったのですよね。そんな当時、ゴミの島から5kmほど北に位置する団地に住まっておりましたが、どこの棟の階段の踊り場にもハエがぶんぶんと輪を描いて飛んでいたことを思い出しますなあ。今となっては、よくまあ、そんなところに住んでいたものだなと…。

 

このゴミ戦争の時代、都内では江東区以外にもゴミ焼却場を設ける話が浮上しましたが、これに頑として反対したのが杉並区でしたですねえ。なんと高慢な…てなふうに子供心にも思ったですが、後に高井戸の処理場ができたあとではあるも、その杉並区に住まって「住み心地いいね」などと思っていたのですから、虫のいい話というか何というか…。

 

ま、かかる思い出話はともかくも、はっきり言って第五福竜丸は廃船、いわばゴミとして打ち捨てられたわけですな。買い取りは文部省で国家予算でしたが、もはやゴミとなれば処分場に捨ててそれっきりというわけながら、これを保存しようという運動が立ち上がることに。この当時は、革新都政と言われた美濃部亮吉都知事の時代、そんなことも(おそらくは)あって、東京都が面倒を見るということになったのでもあろうかと思うところです。

 

現在の夢の島は、ゴミの島から驚くほど様変わりしましたですね。記念館前にはこんなマリーナが作られていたりします。目の前の水際がまさに第五福竜丸が打ち捨てられていた場所、上の写真で見る場所そのものだとか。

 

 

また、展示館を挟んで反対側には広大な芝地や運動施設が広がっていますけれど、築地から卸売市場が移転した先の豊洲の地下には何が埋まっているものやら?と思うのと同様に、この下には何が埋まっているものやら…と思うと、かつての状況をいささかなりとも知っている者としてはあまり近寄りたくない土地ではありますね。

 

 

ということで、思い出話まじりになったせいか、館内展示に関してはおよそ触れられておらず…。そのあたりの振り返りは次の機会ということで。