東京の西方、多摩に住まう者としましては「遠いなあ」という場所ではあるのですが、こんなところへ行ってきたですよ。

 

 

東京・江東区の新木場です。いかにも木材の町らしく、かような看板があったのですなあ。で、はるばるこんな埋め立て地の突先(さりながら、現在はさらに埋め立て地が延びておりますが)までやってきましたのは、「木材・合板博物館」なる施設があることを思い出したからでして。先に国立天文台三鷹キャンパスを訪ねて昔むかしの天体観測ドームは木造であったことを気付かされ、「やるねえ、木材!」と思い至ったことが発端でありますな。

 

駅前はビル群に囲まれて、その向こうにある(らしい)貯木場は見えませんですが、駅の南東側には軒並み材木屋が並んでいるという状況でしたなあ。基本的には建築資材などとしてBtoBの取引が行われるのでしょうけれど、中にはこんな露店を出している業者もあったり。

 

 

ですが、一般人が普通に買物に歩くといった地域では全くありませんので、果たして売れることがあるのだろうか…と余計なお世話が浮かんだり。ともあれ、そんな材木置き場の建屋ばかりが並ぶ一角に、群を抜いて高いビル(その名も新木場タワー)が一棟ありまして、その中に「木材・合板博物館」はありましたですよ。

 

 

建物としては建材商社のJKホールディングスの本社ビルのようでして、中に入っている「木材・合板博物館」を運営するは公益財団法人ながら、そことは同社の関わりが深い役員構成のようですので、まあ、実質的には同社の企業博物館のようなものでもあろうかと思うところです。

 

 

で、ビルのエントランス・ロビーにはやおらヨットが展示されておりますが、これがあの『太平洋ひとりぼっち』で知られる堀江謙一の「マーメイド号」とは。実物はサンフランシスコにあってこちらはレプリカではあるものの、このヨットはラワン材による合板製であったのですなあ。合板の強度をアピールするには打って付けの展示物といえましょうかね。では、いざ3階の「木材・合板博物館」へ。

 

 

「木材・合板に関する資料を広く収集・保存・展示する世界で唯一の博物館」と同館HPに紹介されておりまして、いろいろ見どころはありそうですが、ついつい食い付く歴史の話でありますよ。

 

 

そもそも「新木場」という地名は「木場」という地名あってこそでありますね。その「木場」の起こりあたりから見て行こうと思いますが、徳川家康が江戸に入ってきた折、このときから城普請も城下町形成もと大きな土木建築需要が起こるのですな。旧領である駿遠三の地域から材木商を呼び寄せ、彼らも新興都市化を商機と見たか、江戸に定住するようにもなるのですな。当初は、日本橋・神田あたりに材木置き場が置かれたそうで、旧町名として日本橋に本材木町や新材木町というのが伝わるのはその名残なのでしょうなあ。

 

されど、何せ火事が多かったお江戸の町なかに材木置き場があるとは好ましいことではなく、寛永十八年(1641年)に材木置き場は大川(隅田川)の向こう(東側)、つまりは深川と言われた地域へ移転することになったそうな。深川で最初に置かれた材木置き場は「元木場」と呼ばれるようになり、後に深川のエリア内で再移転したところが、いわゆる「木場」(新木場から北西あたり)となって昭和に至るまで材木屋ばかりの町、そこここの掘割に丸太が浮かぶ風景が続いていったということです。

 

 

こちらは1973年(昭和48年)、新木場への移転が開始される直前の木場の風景ということで。見事に丸太だらけでありましょう…と、こうした風景が実は個人的にはえらく懐かしいのですよね。やおら木場の歴史に食い付いた由縁でもありますけれど、かつて住まった(今でも両親が住まう)ところは深川地域ではないものの、仙台堀川という掘割(要するに運河)近くにあって木場とは水路で繋がっていることもあり、やっぱり上の写真のような光景は日常風景でもあったわけでして。

 

 

木場に「角乗り」という伝統の職人技がありますですが、水に浮かべた角材を足先でくるくる回転させるような技でして、その上に乗っかり続けることが難しいわけですな。つまり、水に浮かんだ木材はバランス次第で容易にくるくる回ってしまう。それが丸太においてをやです。そこで、日常的に丸太が浮かんだ川を目の前にして、これに子供たちを近づけては危ないと、看板が立てられていたわけです。曰く「ここで遊んではいけません」と。文字とともにカッパのマークが付いていたことをよおく覚えておりますよ。

 

ただ、「ここで遊んではいけません」という場所は、そこで遊ぶ子供がいるから警告されるのでもありまして、子供の頃にはよおく丸太に乗っかったものでありますよ。うっかり丸太がくるりと回ってざぶんと水につかると丸太どうしは元のとおりに寄り添って、水から上がれなくなるとは散々聴かされていましたので、それこそ慎重に掟破りを。

 

そんなふうに個人的にも懐かしい風景は1974年、新木場への移転開始で徐々に無くなり、仙台堀川なども含めて多くの掘割が埋め立てられて親水公園のようなものがあちこちで作られたのですな。江東区の地図をみれば、帯状に長く続く公園がいくつも見てとれますが、ほとんどは材木を浮かべておく必要がなくなって埋め立てられたのでもありましょうかね。ただ、最終的な移転完了は1982年らしいので、ずいぶんと長くかかったのであるなあと思ったりしたものです。

 

掘割もさりながら、木場そのものの貯木場もまたすっかり埋め立てられて広々とした公園になり、片隅には東京都現代美術館が建てられておりますよ。江東区にあって丸太のいかだが長く長く続いていた風景を懐かしむのは「昭和も遠くなりにけり」てなことでもありましょうかねえ。

 

と、余談が長すぎて博物館の話がお留守になっておりました。次には改めて木材・合板博物館の展示を思い返しておこうと思いますです、はい。