ミューザ川崎シンフォニーホールでランチタイムコンサートを聴いてきたのですな。単純に今回は東京交響楽団メンバーによるアンサンブルとだけ受け止めておりましたですが、ホルン、ヴァイオリン、クラリネット、ファゴット、バスクラリネット、それにピアノという実に変則的な六重奏は思いのほか多彩な音色で豊かな響き、楽しめるものでありましたですよ。

 

 

端から敢えてこの編成を想定してメンバーを集めたのか、はたまた気の合う仲間が集まったらこういう楽器たちになったのか、そのあたりは詳らかではありませんけれど、総じて和気あいあいとした演奏ぶりからすると後者だと思いたいような(まあ、元より同じオケのメンバーだしとは思うものの、ひとつのオケの全員が仲良しとも思われず…)。といいますのも、それぞれが好きな楽器を持ち寄ってごった煮的な編成のバンドというのも面白かろうなあと、かねがね思っていたわけでして。

 

以前にも同じようなことを言ったことはありますけれど、音楽(取り分けクラシック音楽というべきか)はだんだんと演奏する側と聴く側というのが分化されていって、奏者の側はとことんプロになっていき、聴く側は聴く側で(例えば先日休刊となった雑誌『レコード芸術』などで見られた演奏に対する論評を展開するとか)独自にその姿勢を深化させていったりしておりましたなあ。ですが、上手か下手かとは常につきまとう問題ながら、音楽「する」楽しみというのは厳然とありましょうからね。折しも本日(7/12)の東京新聞で見かけた記事を見ても「そうだよなあ」と思ったりして。

 

記事は、「ギターにドラム、ピアノや三味線-。埼玉県川越市の「KEION(ケイオン)」は多彩な楽器をそろえて演奏や歌、踊りを楽しむ異色のデイサービス(通所介護)」を紹介していましたですが、一般的な老齢介護の現場では、唱歌を一緒に歌ったり、小さな打楽器でリズムをとったり…というのが音楽との関わりでしょうし、そうでなければカラオケに頼るくらいなところではなかろうかと。

 

ところが記事にあったのは、各種取り揃えた楽器を好みに応じて手にとって音楽「する」風景なのですよね。高齢者と古代人を弾き比べるのもどうかと思いますが、音楽を聴く文化が相当に後から生まれたもので、本来的にヒトは音に興味を示して奏でることを始まりとして音楽に接してきたのでしょうから、音楽「する」ことはむしろ自然なヒトの姿であろうかと。楽しくないはずがないですよね。

 

と、話はすっかりミューザ川崎の演奏会からはずれまくっておりますが、今回の特殊?なところは楽器編成にとどまらず、イベント全体の構成の点でもまた。何しろ、ホルン奏者の方が書いたシナリオによる語りに沿って、その語るイメージに近い音楽を奏でていくという形だったのですから。この点、上のフライヤーにちゃんと目をとおしておれば、「ベートーヴェン先生の思い出~ツェルニーが語る」というものであるとして、事前にいくらか想像できたところでもありましょうか。

 

ツェルニー(チェルニー)はピアノの練習曲を作った作曲家・ピアノ教師として知られておりますが、自ら進んでベートーヴェンに弟子入りした人でもありますですね。今回イベントではそのツェルニーが師であるベートーヴェンの思い出を語る形で進むのですけれど、その中では後にツェルニーが書き残した「音楽的にも、人間的にも、私の先生は私の父だけだ」というひと言の受け止め方が出てきます。これに対する一般的な解釈は「弟子ながらもツェルニーはベートーヴェンを認めていなかった」というものであるようでして。子弟の不仲が取り沙汰されもするところかと。

 

ただ、師弟関係にあったことは事実としてありながら、「私、ツェルニーはベートーヴェンの弟子です」と広言してはばからないなどとんでもないと、それほどにツェルニーは師の偉大さを感じていたのではなかろうかとも思うところです。ベートーヴェンの弟子、ベートーヴェンの後継者として、誰もが認める存在になりたいと思いつつ、そうはなれなかった…てな思いが、先のひと言をツェルニーにつぶやかせたのでもあろうかと。

 

確かに大作曲家ベートーヴェンの確固たる後継者とはなれなかったツェルニーながら、21世紀の今でもピアノの教材となっている曲集を残したりしたことは、他の誰かと比べる必要なく、歴史にその人生を刻んだと言っていいのではないですかね。どちらが広く知られているかとかそういうことではなくして、ベートーヴェンはベートーヴェンの、ツェルニーはツェルニーの人生があったわけで、その人生を比較してとやかく言うとしたら当たっていないのでしょう。

 

ベートーヴェンはその人ひとりで「偉大」だったのでしょうけれど、ツェルニーからリストが影響を受け、その影響をワーグナーほかが受けて音楽史が成り立っているとなれば、果たしてどちらがとは言えなくなってしまいそうですしね。多分、人それぞれに「誰それみたいになりたい」という思いが生ずることがありましょうけれど、当の本人は決して「第二の誰それ」ではなくして、ひたすらにその人でありましょうから。今回の音楽イベントを聴きながら、そんな思い巡らしをしたものなのでありましたよ。