埼玉県新座市という、いわば東京のベッドタウンにある平林寺。臨済禅の修行道場になっていて境内では静粛を求められていますけれど、奥深く広がる境内林の中を進んでいけば自ずと静寂に包まれてきますですね。この木立の懐に抱かれた感には、大騒ぎするような人たちが訪れようとも思わぬところでありまして。

 

しっかりと踏み固められた遊歩道然とした道を奥へと進んでいけば、やがて「大河内松平家廟所」に到達するのですが、これにはいささか驚かされますな。何せ、これまでに関わりある人物として挙げた松平信綱はもとより、直系・傍系を含めた一族の墓石が170基も並んでいるのでありまして。とても、一望できる範囲ではありませなんだ。

 

 

 

元々「平林寺は永和元年(1375)武蔵国(武州)、現さいたま市岩槻区に創建され」たのだとか。家康の江戸入府に伴って、関東に入った大河内氏が平林寺と関わりを持ち、大河内氏、松平姓を許されてからは大河内松平氏の菩提寺となっていったのでしょうか。それが新座(野火止)の地に移されたのは、三代将軍家光の重用(伊豆守だっただけに「知恵伊豆」と呼びならわされたごとく)されて老重職にも就いた松平信綱の遺命によるものであったというのですな。川越藩主の時代に領内開拓のために引いた野火止用水によって潤された新開地は、信綱の目には大河内一族の墓所を作るにうってつけと思えたのかもしれませんですね。ちなみに、信綱がらみではこのような供養塔も境内にあるのでして。

 

 

陰になって墓碑銘は見えないでしょうけれど、「肥州島原對死亡霊等」と刻まれてありまして、これは信綱が島原天草一揆に際し、実質的に鎮圧軍を指揮して乱を治めたことから、戦没者の慰霊とともに信綱の事績を後世に伝えんがため、もはや幕末の文久元年(1861年)大河内松平家が藩主となっていた三河国吉田藩の藩士が建立したものであったということでありますよ。お殿様の偉大なるご先祖として、信綱は語り継がれていたということになりますかね。

 

と、話はすっかり大河内松平家から離れることになりますが、島原天草一揆の供養塔の立つ一般墓所と思しきエリアには、「ん?!」という解説板がいくつか見られたのですなあ。例えば、このような。

 

 

「増田長盛って、あの秀吉の奉行のひとりの…?」と。何故ここに、という以上に何故関東に?と思うところですけれど、関ケ原に臨んで二股をかけていたような長盛(先日読んだ『天下大乱』でも窺えました)ですけれど、結局のところは西軍敗戦とともに没落することに。ただ、その後のことはもはや多くを語られることもないので知らなかったわけですが、どうやら高野山預かりを経て、家康の目の届く範囲である岩槻城にお預けとなったようで。大坂の陣に本人が動くことはなかったわけですけれど、息子の盛次が豊臣側に付いたことが関わってか、長盛に自害が命ぜられて岩槻の地に果てたということのようですなあ。岩槻の地にあった頃の平林寺に葬られ、松平信綱の遺命による平林寺移転とともに、長盛の墓も移されてきたということでありますよ。

 

 

…というふうな思い掛けない人物(の墓所)等との邂逅などなど、平林寺の境内林巡りはも少し続きます。