さて、最初は上野毛国紀行と言うに違わず、かみつけの里保渡田古墳群を巡り、後には看板とはいささか異なる碓氷峠鉄道文化むらの話が長引いてしまっておりましたが、こたびの旅の記録としては最後にまた少々歴史絡みで締めくくるといたしたく。といっても、古墳時代より遥かに後世、江戸時代のお話ではありますが。

 

 

碓氷峠鉄道文化むらの正面出入口とは別のところにひっそりと、トンネルを抜けて行った先に退場専用口があるのですな(正面に回り込めば再入場可)。この上をかつて信越本線の下り(つまり横川駅から軽井沢駅へと向かう)列車が走り、今では時折文化むらのトロッコ列車が走っているわけですが、トンネルを潜って出口を抜けますと、そこには(上の写真の看板どおり)なかなかに時代感のある設えで安中市観光案内所がありました。

 

 

これに併設される形で、かつて碓氷峠越えの旅人を監視するために設けられていた「碓氷関所」に関する史料展示があり…と、さも知ったかになってますが、横川に来るまで碓氷関所のことは全く何も知らなかったのですなあ。

 

 

展示資料は撮影不可とのことですので、安中市教育委員会発行のリーフレットで解説されていたことを振り返っておこうと思いますが、まずもってその歴史のほどを冒頭に「江戸時代のお話」と書いたものの、実はもそっと長い由緒があったのですな。

(関所のおこりは)醍醐天皇の昌泰二己末年(899)、坂東に出没する群盗の取締りのため、相模国足柄と上野国碓氷の2ヶ所に関所を設け、交通を監視したのがはじめである。

京の都への出入り口にあたる逢坂関や東海道の清見関などには及ばぬものの、かほどに長い歴史を持っていたとは。その後は鎌倉時代にも維持されていたことは伝わるも、現在に関所跡として伝わる場所は元和九年(1623年)に江戸幕府が設けたものであるそうな。観光案内所からは徒歩5分ということでしたので、どれどれと出かけてみましたですよ。

 

 

舗装された車道からは一段高くなったところに幟旗が立ち、再現された関所の門が見えますが、この高みは本来は番所が建っていたところだとか。門自体は東側と西側にそれぞれ、道を塞ぐようにあったのでしょう。

通行人は番所の前の石段を登り、番所の前にある”おじぎ石”に手をつき、ひざまずいて手形を差出し(通行の)許しを受けたという。
関所を破った人は御定書により磔・獄門の刑に処された。

石段を上がった先には「おじぎ石」はこれよ!という案内がありますが、本物なのでしょうか…。

 

 

 

ともあれ、関所役人は責任重大でもあった半面、よく聞く「入鉄砲に出女」の取締りに託けて厳しく取り締まる裏では、「蛇の道は蛇」といったことが行われていたのではなかろうか…とは、時代劇ドラマの見過ぎでしょうかね(笑)。と、時代劇ドラマで思い出したわけでもありませんが、観光案内所の壁にはこんなポスターが貼られておりましたよ。

 

 

「安政遠足」(あんせいとおあし)は関所のお膝元、安中藩で実際に行われた長距離走ですな。日本マラソンの発祥とも言われるものだけに、安中市ではこれを模したマラソン・イベントが開催されているのでしたか。長距離であることはもとより、山道を駆け抜ける要素もあって、藩主の思いつきで走らされた安中藩士たちは大変だったでしょう。

 

 

これを題材にした映画『サムライマラソン』を見れば、雰囲気を感じとることはできますですね。ただ、映画のお話は「うむむ…」(個人の意見です)でして、いくらでも『超高速!参勤交代』くらい笑えるものにできたはずですのに、そういう指向ではなかったようですなあ。

 

 

これは関所跡に沿う現在の道のようす。これがいわゆる中山道なのでしょう、沿道の佇まいが何となく雰囲気を残してもいるような…と、お江戸の昔に思いを馳せたところでもって、この度の「上野毛国紀行」は全巻の読み終わりでございます。