先日、東京・四谷の紀尾井ホールへフルート・リサイタルを聴きに行った折、今後の公演紹介のためのフライヤーを並べたラックにかような一枚を見つけたのですなあ(聴きに行くことはなかったですが…)。
東京女子管弦楽団第2回定期公演を告知するもので「ようするに女性だけのオーケストラであるか?」と。フライヤー裏面の「当楽団立ち上げの背景」にはこんなふうに書かれておりましたですよ。
クラシック。西洋音楽の歴史は1000年以上と深く、近代の女性解放運動の歴史と並走するように、音楽においても多数の女性交響楽団が作られていたものの、その多くが世界大戦や紛争の戦禍により消失、活動停止に追い込まれています。一方で、音楽大学の学生をはじめとする若手音楽従事者の多くが女性である傍ら、現存する世界的オーケストラでは女性の登用が進んでいないのも事実です。日本では、プロの音楽家としての補償制度がなく、産休育休制度からも取り残されているなど、女性音楽家を取り巻く様々な問題があります。
当楽団では、SDGsのターゲットにも設定されているジェンダー平等について、主要先進国最下位である日本から、女性の持つパワーの提起、課題の克服を目指し、日本の女性音楽家の地位向上並びに、世界の女性に勇気を与えるための活動を行っていきたいと考えています。
例えばですけれど、Eテレ『クラシック音楽館』などではずいぶんと昔のN響演奏のアーカイブが放送されたりすることがありまして、「おお、おっさんばっかり!」という印象でありました。直近のライブ収録映像では、それがずいぶんと様変わりしているように窺えはするものの、続々と輩出される女性音楽家の(適切な技量による選抜の)受け皿としては未だ十分ではない。何もN響に限った話ではないのでしょうけれどね。
それにしても「未だに」なのであるなあとは、しみじみと。何せ、折しも読み進めていたのが『キッチンからカーネギー・ホールへ エセル・スタークとモントリオール女性交響楽団』という一冊だったものですのでね。カナダにおける女性音楽家たちの奮闘と挫折のドキュメンタリーなのでありまして。
3月頃でしたですか、TV朝日で『津田梅子~お札になった留学生~』というスペシャルドラマが放送されたましたけれど、幼くして米国に渡った津田梅子(広瀬すずが主演でしたな)は、アメリカの女性の自立した姿、そして男性もまた女性を自立したものとして遇するようすに大いに感化されて帰ってきたことが描かれておりました。日本に返ってみて女性の扱いに彼我の差が格段であることに直面し…となるわけですが、そりゃ、19世紀末の米国社会は侍の世を抜け出したばかりの明治日本とはようすが異なろうとは思うものの、ドラマで梅子が力説したように米国社会で女性は自立した存在として目されていたのかどうか…には、些か戸惑いを覚えたものでありました。もちろん、男性の付属物であるようなところからは一歩踏み出していたにせよ、それにしても…と。
本書の舞台は主にカナダであって正確には米国ではないものの、ここに描かれるのは(時代は少々下って第二次大戦期ながら)音楽を志す女性たちが悪戦苦闘する姿、つまりは男性から見て指揮をしたり、大きな楽器を演奏したりするのは男性の仕事であるとされていた時代なのですな。なんとなれば、女性が組織を統御する(指揮する)、女性らしい優美な姿を損なうような力仕事をする(金管楽器を吹き鳴らしたり、コントラバスを奏したり)ことなどありえないでしょうと。
19世紀末からすでに半世紀は経とうかというこの時期においてさえ、女性を取り巻く状況はかようんであったとなれば、やはり先のドラマにはちと誇張があったのでは…とも思ったりするものの、ドラマの話はともかくとして、カナダの女性音楽家たちの話です。
早くからヴァイオリンの腕を磨いてきたエセル・スターク(ヴァイオリンは小さいので女性にも向くと考えられていたようで)はやがて指揮を志すようになります。自らの音楽性と大人数のオケをまとめあげる統率力とにも自信のあったエセルですが、苦労して入学したフィラデルフィアのカーティス音楽院で指揮クラスの受講は門前払い状態となるのですな。時の指揮科を指導していたのは有名指揮者のフリッツ・ライナーで、オケ指導に厳しいことで知られるライナーはやはり時の男性諸氏同様で、端から女性が指揮することなどありえないと考えていたわけです。
が(話を端折って)勝手に教室に赴いて受講してしまうエセルを、そのヴァイオリンの技量に見る音楽性も相俟って、やがてはライナーも認めるところとなり、後年には自らシェフとなっていたピッツバーグ交響楽団のコンサートミストレスに招こうとするのですし。これはこれで、その頃のオケがひたすらに男性職場だったことを考えると、破格の待遇で迎えようということになるわけですが、エセルはその頃、故郷カナダのモントリオールにあって女性のためのオケを一人前にする仕事に心血を注いでいたのですなあ。
このモントリオール女性交響楽団(Montreal Women's Symphony Orchestra/MWSO)、音楽をやりたいけれど活動の場が無いと考えていた女性たちが参集して、そこそこな団員を集めることができたものの、そこにはエセルのようなプロもおれば、仲間内で少々演奏経験があるというアマチュアもまた混在した状態。さらに女性に向かないといわれてきた楽器の奏者が集まらない。そうとなればパートによっては男性の手を借りてという声もあったのをエセルは排して、楽団自らが育成しようじゃないかということまでして、女性のオケとして独り立ちすることに拘りを見せるのでありましたよ。そんな思いが生じるほどに、音楽界はひたすらに男社会であったわけで。
そんな演奏家としては玉石混淆の状態ながら、MWSOは活動開始から7カ月後の1940年7月、最初の演奏会を開催するに至り、これが好評裡に負えられたのはメンバー全員がそれこそ血のにじむ思いで精進した結果なのでありましょう。定期的にモントリオールで彼女たちが演奏会を開催するのを通じて、当初はお嬢様の御遊びと思われていたのが、音楽性豊かな、確かな演奏を聴かせることで周囲の目が変わっていき、結成7年後には何と!ニューヨークのカーネギーホールで演奏をという招聘が舞い込むに至るのですな。当時、カナダにあったプロ・オケ(当然に男性メンバー)でもカーネギーホールは夢の舞台であるというのに。
とまあ、実に輝かしいばかりの実績を積み重ねたMWSOですけれど、折しも戦争中であってカナダでも男性は出征しており、(男性ばかりの)プロ・オケが十分な活動ができない時期であったこととの関わりは否定できないところのようですが、それはともかくも、このMWSOが行き詰まっていったのは自らの活動が成功したからでもあったのですなあ。
なんとなれば、女性に無理と言われたような楽器もMWSOの演奏を聴けば、男性奏者に遜色なく、もしくはそれ以上の技量でこなしている事実を目の当たりすることになり、徐々にではあるにせ、有力メンバーが他の(男性主体であった)プロ・オケに活躍の場を見出していったもする。お膝元であれば、モントリオール女性交響楽団からモントリオール交響楽団へ移籍するといった具合に。
その後(第二次大戦以降)のありようを見れば男社会が女性を受け入れる歩みは遅々としたものであったわけですが、MWSOは(米国に先んじて)女性の音楽界進出に間違いなく大きな役割を果たしたものとは思います。が、彼女らがこじ開けた音楽界の風穴が大きくなればなるほど女性だけのオーケストラの存在が危ぶまれることにもなったとは何とも皮肉な話ではないでしょうか。でも、こうしたことは音楽に関してのことばかりではないでしょうけれどね。
MWSOが活動を終えた1965年から時を経て、2022年に誕生した東京女子管弦楽団はどんな歴史を刻んでいくのでありましょうか。かつてのMWSOが、ともすると男女混合プロ・オケへの人材育成機関のようになってしまったのとは、辿る道筋はおそらく違うと想像してはいますけれど…。