何につけ、およそ世間の話題を追いかけることがないものですので、「ほお、これが日本アカデミー賞作品賞取り立てほやほやの映画であったか…」と。だから見たというわけではないのですけれど、ともあれ映画『ある男』を見てみましたですよ。

 

 

のっけからルネ・マグリットの『不許複製』(『複製禁止』とも)が効果的に(意味深に?)使われていましたですが、これは原作段階からのことでしょうか。読んでないので分かりませんけれど、こんなふうに絵画をモチーフにした場合には画像が直接的に視覚に入ってくる点は映像作品のアドバンテージのひとつでありますねえ。しかも、『不許複製』が映し出されるに際して、何らの説明めいたものが提示されませんので、解釈は見る側に委ねられている。むしろ、この映画を見ることによってマグリット作品の方を、「おお、かような含みで描かれたのであるかぁ?!」と分かった気にさせてもらえるというのも、効用のひとつかもしれませんですね。

 

ところでストーリーですけれど、公式HPにある惹句は「愛したはずの夫は、まったくの別人でした―」となっておりますな。純然たるミステリ作品ではないでしょうから、ネタバレ云々は気にしなくていいのかもですけれど、あまり多く触れるのは控えておきまして、とにかく谷口大祐という人と結婚したと思っていて、いざ夫が亡くなってみると谷口大祐とは全くの別人であることが判明、ではいったいこの人は誰だったのか…となってくるのでありますよ。

 

ここで映画から話は飛びますけれど、そもそも名前って何?てなことも思ってしまいますですね。名前があっても無くても、それによってその人の存在があったり無かったりするわけではないですし、はたまた世の中には複数の名前を使い分けている人がいたりもする。芸名、ペンネーム、はたまた通称、あだ名などなどなどあるも、どれが本当のその人?とはなりませんですね。要するに、社会生活(他との関わり)の中で生きていく上で、名前がある方が便利というくらいなものとも言えましょうか。

 

そんな名前ですが、これを偽っていたとなれば大問題と思えてしまいますですね、この映画のように。でも、その人がその人である、簡単に「本当の自分」とでも言っておきましょうか、その本当の自分にとって名前というのは決定的なことであるのか。社会的にはこれを偽ると怪しげになってしまいますが、何かしらの事情があって、本当の自分を偽る場面は名前でなくてもたくさんあるわけで、それらが全て怪しげとは言えないでしょうにね。

 

例として適切ではないかもながら、例えば身体的にコンプレックスを感じていることがあったとします。傍目、取り分け家族や友人からは「そんなことを気にしなくたっていい」と、いくら言われようと本人にとってコンプレックスを抱かずにもおれないことってありましょう。背が低い、太っている、髪が薄いなどなどなど。

 

で、背が低い人がシークレットブーツを履いて背丈を「偽る」、髪の薄い人がウィッグを使用して容貌を「偽る」と、ここで「偽る」とはいささか言葉として強いかもながら、ありのままの本人ではないとなれば「偽る」とも言えましょうか。さりながら、ここで考えるところは外見の話から離れて、「ありのままの本人」、「本当の自分」とは何であるか、内面の方に思いを致してしまったりもしますですね。

 

周りの人から見て、「こいつはこんな人間で」といった見られ方はそれぞれにありましょうけれど、そんなふうに見られているのはおそらく「本当の自分」ではないでしょうし、だからと言って自分が「こういう人間です」と思っているのが「本当の自分」であると言えないかもしれない。動物の仲間であるヒトにも本能があるわけですが、本能の赴くままに生きている人はおそらくいないでしょう。また、人それぞれに何かしらの欲望が湧きおこるにせよ、その要公方のままに行動する人もまた通常はいないのではなかろうかと。でも、これらのことって、自分を「偽る」ことなのではと思ったりするのですよね。それが、いいのか悪いのかは別問題として。

 

そんな思い巡らしの中で思い出すのは、仮面をかぶった人物像をたくさん描いたジェームズ・アンソールの絵画でしょうか。ふとした気付きとして、人間にとって「名前」もまた「仮面」のひとつなのかもしれんなあと。映画『ある男』を見て、そんなこんなを考えたものなのでありました。