これまたキャッチーなタイトルの本ではなかろうかと。
曰く「偽装された自画像 画家はこうして嘘をつく」でありますよ。


偽装された自画像――画家はこうして嘘をつく/祥伝社


ともすると、絵画にまつわる犯罪話かとも思ってしまうところながら、
著者は美術史家で東京ステーションギャラリー 館長とあっては、至って真面目に。


中世から現代に至るそれぞれの時期から自画像を取り出して、
各々異なるその偽装のようすを語ってくれているわけです。


ただここでの「偽装」というのは、
例えば耐震偽装とか偽装表示とかいうときの、いかにも悪いこと的なものではないのでして、
見るものを煙に巻く謎かけのようなものであったりもするという。


ですから取り上げられる作品も、直球ど真ん中の自画像らしい自画像とは限らず、
ミケランジェロの「最後の審判」が登場したりするという。


ミケランジェロ「最後の審判」


かくもたくさんの人が描かれていれば、
実はその中にミケランジェロご本人が紛れ込んでいましたといっても、
さほど驚くにはあたりませんが、そういう話は余り聴いたことがなく、
従って「ウォーリーを探せ」ならぬ「ミケランジェロを探せ」状態が起こることもない。

ですが、それでも「最後の審判」の中にいるんだそうですよ、ミケランジェロが。


ミケランジェロ「最後の審判」の聖バルトロマイ


中央やや右下に描かれた聖バルトロマイ。この人は皮を剥がれて殉教したということから、
アトリビュートとして皮をはぐ刃物や自らの剥がれた皮をもっていることで、

それと分かるのだそうな。


確かに片手に小刀、もう片手には剥がれた皮を持っていますですね。

が、この皮がどう見ても持っている本人のものとは思われない。
皮を持つ聖バルトロマイが禿げ頭なのに、皮には髪の毛ふさふさですから。


で、結局のところ、この皮だけになってしまっているのが、ミケランジェロであると言われ、
「はっきりとこれを否定した研究者はほとんどいない」のだそうで。


しかしまあ、何だって自らをこんな姿で描くのか…ですが、
それを語ってしまっては本書を読む面白みがなくなりましょうから、ちと話の向きを変えましょう。


自画像の偽装ということを考えたときに、
もしかすると自分の声を録音で聞かされると「こんな声じゃないはずなんだが…」と思うような

感覚が入りこむんではないかなと思ったり。


自分のことは自分がいちばんよく知っているつもりがどうやらそうではないことが
この声のことでもよく分かるわけですが、実は見てくれに関しても、鏡に写った自分が
自分の本当の姿だと思っている(思い込んでいる)のと違っていることがあるのではなかろうかと。


そんな感覚があっていざ自画像を描くとなれば、鏡に写ったありのままを描いているようで、
無意識に偽装をしてしまうことも考えられないことではない。


自分の本当の姿がどうであるか。
鏡に写った客観的な自分よりも(どういう尺度でかは別として)良いものと考えているケースもあれば、
逆に考えているケースもありましょう。


そうしたあたりに考えが及ぶと今度は、
ジェームズ・アンソール(想像どおり本書にも取り上げられてます)が描くところの
仮面を被った姿がいかなるものか…ということに繋がってもくるような。


ジェームズ・アンソール「仮面に囲まれた自画像」(部分)

以前、アンソール作品を見ていて考えたことですけれど、仮面を被った人物像を見るとき、
普通に見れば「この人は本当の顔、即ち本性を隠している」と受け止めるのではと思いますが、
実は仮面で表されているものこそ本当の姿=本性であって、

仮面を被っていない(本当のと思っている)顔こそ本性を隠す仮面ではなかろうか…

とまあ、そういうことなんですね。


そんなふうに考えると、人間の顔とは実にたちが悪いようにも思えてきます。
顔じゅうのあらゆる筋肉を微妙に操って、本音隠しに邁進するようなところ無きにしもあらずでして。


そうなってくると、どんな顔がいったい本当の本物なのか…てなことになってきますし、
意図が働かないときでもないと正体が分からない、となると寝ているときでもないと…てなことにも。


で、寝顔こそは自分には見えない(見る方法が全くないではないですが)ことから、
やっぱり自分のことは分からないので想像するしかない。

想像が入りこんだものは結局のところ偽装された自画像ではないか…と、

何やら堂々巡り的な話に陥ってしまいましたですね。


そうそう、つらつら書いてきた後半部分は本書の内容と全く関わりのない、

単なる思い付きでありますよ、念のため。