マルセル・マルソーといえば、パントマイムの神様ともされて(かつては?)知らない人のない存在でもあったろうかと思うところでありますね。フランス人のマルソーと聞けば、むしろソフィー・マルソーの方を思い浮かべる年代の方もありましょうけれど、どうやらソフィーはマルセルから採ってマルソーの芸名を付けたというくらいの「存在」ではあったわけで。

 

ただ、マルセルの方のマルソーという名は「ユダヤ人であることを隠すために姓をMangelからMarceauに変えた」ものという記述がWikipediaにありましたなあ。そうした出自にも関わって、そのマルセルの若き日、ナチス占領下のフランスにあって、よもやシンドラーとか杉原千畝とかよりももっと行動的にユダヤ人孤児の国外脱出に関わっていたとは。いつの頃からか、映画では「実話に基づく…」という脚本ばかりになってきてたりしますですが、なるほど実話は映画の種の宝庫であるようですなあ。今回見たのもそんな実話に基づくという一作、『沈黙のレジスタンス 〜ユダヤ孤児を救った芸術家〜』でありましたよ。

 

 

ナチス・ドイツによるユダヤ人排斥の動きがフランスにも波及するばかりか、戦争が始まるとフランス自体がドイツの占領下に置かれてしまった時代、青年マルセルはただただひたすらに俳優の道を目指して、家業の肉屋を営む父親に愛想をつかされているような状態。兄やその友人たちがレジスタンス運動に関わるのにも距離を置いていたところながら、ストラスブールというドイツ国境の町であっただけに、あるときドイツで孤児となったユダヤ人の子どもたちが匿われてフランスに移送されてくるようすを目の当たりにしたマルセル。心の中にいささかの火が点った瞬間でありましょうか。

 

もっとも、その後もレジスタンスの活動にはおよそ積極的ではなかったようで、心を寄せるエマが活動に深く関わっていたがために参加しているといった感じでしたが、ユダヤ人虐殺で悪名高いSSのクラウス・バルビーが乗り込んでくるに及び、いよいよもって匿われていた子供たちに危機が迫ると、彼らと山越えでスイスへと逃す計画には率先して関わっていくのですなあ。折しも、父親が逮捕されてしまったり、はたまた計画途上でエマが尋問されたりといったことがあって、いささか点ったという心の火が大きくなってもいったのでありましょう。

 

数々の試練をくぐりつつ、レジスタンスの活動としては連合国軍と連携してナチス・ドイツへの反抗(武力闘争)に逸る仲間のいたわけで、エマもそのひとりなのですけれど、そんなときにマルセルがエマに言ってきかせる言葉が印象的ではなかろうかと。曰く、攻撃をしかける側に反撃しようというのは分からなくもないが、ゲリラ戦には限界がある。そもそもナチスはユダヤ人根絶を考えているわけで、これに対する最大の反抗はひとりでも多くのユダヤ人が生き長らえられるにすることではないか、と。こうして子供たちを逃亡させる計画が進行していくのでありますよ。

 

武力が行使されたことに対して、武力で報復することは何も生まないと、長い歴史から人間は学んできていながらも、今でもやはり武力を持つことが抑止力になるといった思い込みがありますですね。要するに保険であると。近頃はまた、その掛け捨ての掛金(出所は当然にして税金ですが…)を増やそうという動きがありますが、果たしてどうなんでしょうかねえ…。「歴史に学ぶ」なんつうことはよく言われることながらも、どうもつまらないところで「歴史は繰り返す」という道を人間は辿ってもしまうようで。

 

話を極めて単純にしてはなんですが、人間は結局のところ何がしたいのよ?と考えたとき、ひとりひとりがそれぞれにできるだけ心穏やかに暮らしていけることでしょうにね。マルセルが考えたように、目先の攻撃に対しては沈黙しつつも、直接的な反抗でない形でレジスタンスを行う、それは結局のところどうしたいから、そのためにどうするのがいいのよ?てなふうな思考が必要であるなと思ったりしたのでありましたよ。