ちょいと前に本を読んだり、映画を見たりで「図書館」なるものに関して思い巡らしをしましたですが、 その延長線上でもう一冊、ちくま新書の『図書館の日本文化史』を手に取ってみたのでありました。

 

タイトルからして「図書館」が日本文化に与えた影響を歴史的に探るのでもあるか…と受け止めていましたけれど、どうやら話はもそっと広範に及んで「文字や印刷・出版の総合的な文化史として描いていく」本だったのですなあ。

 

 

ということでコンパクトな新書ながら話の裾野は至って広いわけですが、ここではやはり「図書館」に関わるあたりを中心に振り返っておこうかと思うところです。

 

そも日本では「図書館」的なる機能を持つものは「文庫」であったと。要するに数々の古典籍を収蔵する場所で、文字通りの名を残すものとしては「金沢文庫」などが挙がるようですな。現在では京浜急行の駅名にもなっていますけれど、なにほどの予備知識は無かったものの、実は鎌倉時代に北条実時(金沢実時)が設立したものであると。

 

もちろん「文庫」のありようは武家が始めたものではなくして、遠く遡る奈良時代、平城京には「芸亭」(うんてい)なる施設が設けられていたそうな。Wikipediaの紹介には「仏典と儒書が所蔵され、好学の徒が自由に閲覧することができた」とありますですよ。

 

とまれ、そのような「文庫」はもっぱら学究のために参考となる書物を蓄積した場所ということになろうかと思うところです。古くは書物に「物の本」、「草の本」という区分けがあったようでして、簡単に言えば前者はカタい本(言うなれば学術書)、後者はやわらかい本(ざっくり言って一般書)のことのようでして、その前者が蓄積されるのが「文庫」であり、日本の図書館はそういうところから始まったということで。後者に関しては、出版事業が大きく花開いた江戸期から明治にかけて、もっぱら貸本屋文化を形成し、書物との関わりは二系統あったのですなあ。

 

今や図書館の蔵書も相当以上にやわらかくなってきて、すっかり貸本文化は廃れたましたですが、かつては(場合によっては今でも)かかる類いの本は「図書館の蔵書としてふさわしくない」云々という話が出たりするのは、こうした系譜によるところなのかもしれませんですね。

 

ともあれ、今思い浮かべるような図書館のありようになってきたのは、ずいぶんと時を経た太平洋戦争後、アメリカの影響というか、要するに占領政策の一環に関わりがあるようで。良識ある市民の育成には「図書館」(いわゆるアメリカ的な、です)が欠かせないとGHQでは考えたと。雑誌類や視聴覚資料を含めて、図書館(古来から日本では「文庫」の系譜をひく施設)の収蔵資料の拡大はここに端を発するようで。「文庫」は多分に専門書を蔵する専門図書館だったところが、ジェネラルに広範囲な資料を収める「図書館」への変化ですな。

 

さりながら、この占領政策から出た「図書館」のありようは、日本にはどうも根付かなかった。あるところで日本独自路線に分化した図書館の現状と、先に見たドキュメンタリー映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』から窺い知ることのできる余りかの図書館のようすとでは、やはり違いがあるように思えましたし。このあたりのことについて、本書の著者はこんなことを言ってますですね、ちと長いですが。

日本の戦後の図書館政策は占領軍の当初のものの考え方・見方・方針に大きな影響を受けた。米軍が日本に持ち込んだ民主主義はリベラル・デモクラシーで、その前提は国民をインフォームド・シチズン(健全な教育を受けた主権者)とする社会教育機関がつくられることにある。情報が十分与えられ、なおかつ得ることのできる主権者はどこでインフォームされるのか。それは学校ではない。学校は基礎的な教育をするところで、義務教育はそこで受けられるが、成人で健全な常識のある人間が主権を行使するにあたって、必要な情報はパブリック・ライブラリーで入手しなければならない。これが米国社会の多数派の意見である。

先のドキュメンタリー映画で見たところを「なるほど」と思い返すわけですが、図書館のありように対する考え方はともあれ、昨今のようすから推測するにインフォームド・シチズンの育成がそもアメリカでうまくいっていないようにも思われるのですが、まあ、これは別の話でありましょう。

 

ともあれ、これが日本には根付かなかった。なんとなれば、教育はひとえに学校に委ねられている感が強くあるのと、学校後の教育というか啓蒙というか、情報入手の経路の多くをマスメディアに依存していると言わますと、「確かにねえ」と頷かざるを得ないような。もちろん個人差はあるにせよ、マスで考えたときには決して否定できない気がしますですね。マスメディアが発信する内容を疑ってかかるのは先進国の人々一般に言われることながら、そうした中でわりと極端にマスメディアの発信を信憑性あるものとして受け止めてしまっているのが日本人でもあるようですし…。

 

どうも根っこのところには情報入手に受動的なところがあるのかもしれませんですね、日本人は。図書館のレファレンス・サービスが使いこなせていないのも結局はそこのところに関わっているのかも。結果、図書館はベストセラー本を無料で貸してくれる場所という意識ともなり、その貸出・返却手続きが主たる業務になってしまいがちな「司書」は、本来ライブラリアンという専門職であるにも関わらず、資格に重きが置かれないということになってしまうのかも、です。

 

本書の最後では、図書館司書に対してよき学習者・研究者を育てる伴走者たれと、その奮起を促していますけれど、利用者側に染み付いた無料貸本屋のイメージをどうにかして転換していかねばならないところながら、なかなかに難しいところではなかろうかと思えてしまうのでありました…。