…ということで、お江戸日本橋のお隣に掛かる江戸橋、そのたもとにありますビルに「三菱倉庫江戸橋歴史展示ギャラリー」を訪ねてみたというお話です。入口はここだろうと思のですが、展示施設があるような案内も無いものですから、どうにも入りにくいような…。

 

 

出入りするのはスーツ姿の会社員然とした人たちばかり。ちらり覗けば、すぐそこには警備員が立っている…とは、あまりウェルカムな雰囲気ではありませんけれど、取り敢えず警備の人に尋ねてみれば、「どうぞどうぞ」という具合。ガラス張りの自動ドアを一枚抜けた先はいかにもなオフィス・ビルのエントランスでしたが、その片隅には確かに歴史展示のコーナーが設えてありましたですよ。

 

 

まずはこの、江戸橋界隈の紹介をちと引いておくとしましょうか。ちと長くなりますけれどね。

徳川家康が幕府を開き、日本一の城下町となった江戸で最初にできたのが、日本橋の町々です。堀の開削と埋立により形成され、水路が縦横に走っていました。商人、職人の多い商工業地区で、魚河岸などの市場もあり、河川を介して各地とつながる物資の集散地でした。江戸時代初期の大火の後、火除地として設けられた江戸橋の広小路は、買い物に、娯楽にと人が集まり、にぎわいます。日本橋に続く川岸にひあ延焼防止のための土手がつくられ、そこに建ち並んだ倉庫は土手蔵と呼ばれました。

長年東京に住まいしていながら、今回初めて江戸橋にやってきまして、印象としては日本橋に比べて開けた、つまりは広々しているように感じたのは、そうか、火除地であったからなのですなあ。また、魚河岸があったとは知りつつも、蔵の建ち並んだ物流拠点ともなっていたのでしたか。

 

 

とはいえ、江戸期の蔵はまだまだごちゃごちゃっとした感じではありますね。ちなみにジオラマの左下が江戸橋ですけれど、後に関東大震災を経て行われた区画整理で、現在の橋はもそっと右寄りに付け替えられたということです。

 

とまれ、そんな蔵の町・江戸橋に目を付けたのが岩崎彌太郎、三菱の登場ですな。彌太郎の設立した郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)では、明治9年(1876)年に「内務省駅逓寮から東京・江戸橋の土地と木造倉庫を賃借し、荷捌所を開設」したのであると。これの発展形が独立した倉庫業となっていくようですが、その事業発展のためにはそれなりの投資もしたようで、ごちゃごちゃとした土手蔵の様相は一変、「三菱の七ツ蔵」と呼ばれるレンガ造りの倉庫が造られたのでして、なにも無い丸の内の野っ原を一丁倫敦にしてしまう三菱ならではでもありましょうか。

 

 

これらの赤レンガ倉庫は現在では影も形もないものの、もし残されていたなら横浜や函館のように大きな観光資源となったことではなろうかと思ったりも。当時としても東京っ子の耳目を集めたであろうことは、三代広重描く「古今東京名所」の一枚に「江戸橋三菱の荷蔵」として取り上げられたことでも偲ぶことができようかと。

 

 

明治16年(1883年)頃の江戸橋のようすとともに7ツ蔵が描かれているわけですが、画面はどうみても蔵が六つしかないような…。謎ですな。

ですが、このランドマークも関東大震災の被害を経た昭和5年(1930年)、より近代的な建物の姿に建て替えられて江戸橋倉庫ビルが竣工する。この展示スペースの入っている、まさにその建物です。

 

 

先ほどもちと触れましたように、江戸橋は右寄りに付け替えられて、倉庫の場所も日本橋川と楓川(今は埋め立てられて、首都高が通っています。東銀座のあたりもそうですが、高速道路が平地の下を通っているのは、元は掘割だったからなのですな)との角地になってますですね。河川利用の船舶輸送にはこちらの方が利便性が高そうで、この区画整理にまで三菱は手をまわしたのではなかろうかと勘ぐりたくなったりもするところです。

 

 

 

ところで、この江戸橋倉庫ビルは上の模型でも見て取れますように、日本橋川に面したビル壁面がそのまま荷物を搬出入できるように開口部となっているのが斬新ですなあ。地上6階建てのどのフロアにも川に停泊する船から直接にテルファーなる機械で荷揚げすることができるのだということです。

 

ちなみに「関東大震災で多くの人が貴重な家財を焼失したことに鑑み」て、耐震・耐火の鉄筋コンクリート造である江戸橋倉庫ビルでは、個人向け(顧客はもっぱら限られた富裕層だったようですが)に「トランクルームサービス」も始めたそうな。つまり、ここが「本邦初のトランクルームサービス発祥の場所」だそうでありますよ。

 

元々は三菱倉庫のネーミングになる「トランクルーム」はごくごく一般的にも使われるようになっていますけれど、太平洋戦争の戦災をもくぐり抜けて昭和45年(1970年)、江戸橋倉庫ビルは全館をトランクルームとすることに。このサービスに需要があったということもありましょうけれど、東京オリンピックを経て首都高に蓋をされた形の日本橋川がもはやかつての物流拠点たり得なくなってきていたからでもありましょうね。時代は陸運、トラック輸送が主で、大型あるいは大量の貨物は海運に残るもターミナルももそっと海沿いに移されたことでしょうし。

 

そんな中、竣工から80年余になるこのビルに建て替えの機運が。2011年に起こった東日本大震災の経験を踏まえて防災性を高めるべく、新たな建物として2014年に完成したのが現在の「日本橋ダイヤビルディング」であるということです。

 

 

地上18階建てのビルでは、一部を三菱倉庫の事務所スペースに利用するほか、やはり全館がトランクルームとなっているとか。先にも見たとおり、低層部の外壁は江戸橋倉庫ビルのままになっていまして、歴史展示ギャラリーの設けられた1階エントランスの片隅に置かれた鋼鉄製の金庫扉は、旧ビル当時のままの場所に据え付けられているのだそうな。昭和初期からこの扉をさまざまな物品が通り抜けたのでありましょうねえ。

 

 

いわゆる企業博物館の類はたくさんの会社が設けていまして、時に宣伝臭さが鼻に付くこともないではないものの、企業史には社会情勢や世相が大きく関わってもくるわけでして、倉庫業の展示はどんな?くらいの感覚で訪ねたところながら、これまた思いのほか(?)興味深いものであったなと思ったものでありますよ。