月末を除く毎週末、日曜日の夜に放送されているEテレ『クラシック音楽館』では、基本的にNHK交響楽団の定期演奏会の模様を紹介するものとなっておりますけれど、時折妙に尖った企画ものが入り込むことがありますなあ。しばらく前ですけれど、作曲家・柴田南雄の音楽を特集した放送回あたりはあれこれの思い巡らしを生む刺激的なものでありました。

 

以前なれば、この手の刺激的企画はもっぱらTV朝日『題名のない音楽会』が担っていた役どころかと思いますけれど、こちらの番組はすっかり柔らか路線(時に柔らかすぎて、バラエティー番組かとも)になってきている昨今、『クラシック音楽館』で時折飛び道具(?)が出てくるのは興味深い限りです。

 

と、そんなことを申しますのも、先週末(3/5放送分)に放送された「HUMAN/CODE ENSEMBLE 新しい音楽の可能性」なる企画ものがまたいろいろと思い巡らしを生むところであったものですから。取り敢えずの内容として、同番組HPにはこんなふうに紹介されておりますな。

「古楽×メディアアート×身体パフォーマンス」による衝撃のコラボレーション!小川加恵と落合陽一、ステラークが挑む、新しい音楽の可能性▼作曲家・藤倉大による新曲も

まあ、この紹介でどれほど内容の想像が付くものかは分かりませんけれど、演奏会という以上に実験的な音楽イベント的なるものではあったろうかと。リアルタイム現代のテクノロジーですとか、それを作ったアート作品(音楽のみならず)ですとか、個人的にはそういった周辺に付いていきにくい状況にある中、そもこのイベントが発するメッセージと言いますか、コンセプトといいますか、そのあたりを掴みかねてはおりますね。

 

さりながら、かつてさまざまに展開されたいわゆる「現代音楽」の試みが収束していった後、その後の技術革新などを取り入れると今回のパフォーマンスのような形が出てくるということは想像できなくもない。とはいえ、ここではそのパフォーマンスそのもの以上に、番組の中でコメントされた、音楽を「聴く」ことの復権とでもいうあたりを気に掛けてみたいと思っておりますよ。

 

もちろん、音楽は聴くものなのながら、その聴き方がすっかりBGMになっているというような指摘がなされておったのですね。要するに音楽そのものに耳を傾ける時間を楽しむのでなくして、音楽が共にある時間をあれこれを過ごすという具合。BGMという言葉や、BGMと言われる音楽との過ごしようは昔からありましたけれど、それが現代の音楽体験はことごとくBGM化しているということなのかもです。

 

まあ、身構えることはありませんですが、日常的に音楽を聴くといった場合、ひと頃であればステレオの電源をONにして、レコードなりCDなりをセットし、スピーカーから流れだす音楽に耳を傾ける…といった鑑賞形態があったと思いますが、今のご時勢、音楽はいつでもどこでも自由に聴くことができる。スマホのような小さなデバイスとワイヤレス・イヤホンさえあれば、場所も時間も問わないわけです。が、それだけに音楽は構えて聴くというよりも、何かをしながら流すという形(まさにBGM)になってきてもいようかと。

 

これは必ずしも音楽を「聴く」こと、ついてはそのための時間そのものに相対的に軽くなっているということでもありますかね。例えばとして、映画を早送りで見ることにあれこれの意見が噴出したりしてますですが、音楽や映画という時間の流れと共に体感、体験する芸術(というと大げさですが)への関わり方が軽くなってきたと言えるのかもしれません。もっとも、音楽にしても映画にしても、ひと昔(ふた昔、三昔かもですが)前とは比較にならないくらい、数多く出回っていて、ながら聴きや早送りでもしない限り、とても追いつかないし…てな思いもあろうかとも。そうなってくると、つかみのいいものばかりになってくるような気がしないでもないですなあ。

 

なんだかキャッチアップすることに精一杯で、取り分け長大なクラシック音楽なぞはとてもとても聴いている時間が無い。よもや音楽を早送りで聴くという形は無いでしょうからね。どうも時間貧乏世代には、ますます向かない遺物になっていっているのかもです。

 

科学技術の進歩なるものは本来、ヒトに余裕をもたらすことを想定してきたのではなかろうかと思ったりしますですね。適当かどうかは別として、労働が肉体頼みのところから頭を使う方にシフトしていったとか、また卑近な例としては洗濯機や掃除機などができて家事労働が些か軽減されてきたとか。ですが、さらに科学技術が進んで進んでその挙句、ヒトはなんだか妙にせわしくなったような気がしないでもない。

 

クレージーキャッツの映画に見る昭和のサラリーマンではありませんが、営業で外に飛び出したら連絡がつかなくなるのをいいことに、喫茶店で休憩したり、はたまた映画館やパチンコ屋にいたりということがあっても、それなりに(営業成績という)結果が出ればお構いなしでもあったのがひと頃。そこに、ポケベルが出現し、ほどなく携帯電話が登場し、ついには会社から貸与されたスマホはGPS搭載で居場所は常に会社に知れている…となりますと、せわしくならないわけがないところかと。

 

とまあ、うまい例示とは言えないかもですが、全体的にせわしさを増す世の中にあって、それだけに音楽を聴く、映画を見るといったことくらい、それらに没入する時間があってもいいように思うのですけれど、そうした行為までがせわしくなってしまうとは、どこかで何かが違っているような。もちろん、便利になっていると言えないこともないのではありますが…。う~む。