…ということで、絵画の話を皮切りに音楽の話へ持っていくはずが、
音楽の方に到達しないうちに長くなってしまって…。今日は後編です(笑)。
「音楽もまた耳にして美しいという所からの転換がどんどん図られた」てなことを書いたですが、
元来音楽は天上世界のイメージでもありましょうから、美しいとか荘厳であるとかいう、
そんな印象を受けるのは当然なのでしょう、きっと。
これは西洋世界のキリスト教でトランペットを吹く天使の図像が見られる一方で、
日本のお寺さんでも天女が空を舞いながら笛を奏でていたりする図像が見られますから、
洋の東西を問わない感覚なのかもしれませんですね。
と、音楽も美術は同じようなスタートラインに始まって、
昨日に美術の方で書いたようなことはちと端折るとしますけれど、
ざっくりと音楽的な区分に従えばバロック以前、バロック音楽、古典派、ロマン派、
後期ロマン派…と音楽は移り変わっていったわけです。
ですが、この流れを美術と比べてみると多様性の点では美術よりも穏健な気がしますし、
モネが印象派という新境地を切り拓いたのが19世紀末ならば、
音楽の方の新境地はも少し遅くてシェーンベルク が十二音技法を始めた辺りが
比較対照されることになりましょうか。
ではありながら、
その後の音楽の展開は異常とも思えるほどに加速度がついたのではなかろうかと。
例えば抽象絵画が「いったい何が描いてあるのかわからん…」というものだとしても、
アカデミスム流の美しさから離れて、しかも勝手に受け止めていいという前提に立てば、
色彩だったり、リズム感だったり、従来の絵画とは違う部分で
「美しい」と感じられる部分もあろうかと。
それはある意味「慣らされた」と言えないこともないわけですが、
音楽の方はといえば美しいも何も耳を覆いたくなる音なのでは…という曲や、
あるいはメロディーやリズム、ハーモニーといった従来の音楽要素では
受け止めきれない曲があったりする。
絵画の方は「うむむ」と思えばその絵の前から立ち去ることができますけれど、
時間芸術である音楽では「うむむ」と思っても一曲終わるまでは
その場に留まらなくてならないという難儀が待ち受けるのですなあ(笑)。
個人的にもそんな厳しい環境下で耐える経験をして、
そういうところが20世紀音楽、前衛音楽にあまり近づかないことにもなっているかと。
ではありますが、これもまた「慣らされる」ところでもあるのか、
気持ちが悪くなりそうな響きの中に他の曲では聴けないような静謐感があったりすることに
ふと気付かされたりするのですな。
「拒絶と受容が波のように繰り返し寄せては返す」の結果であろうかと。
と、ここまでも前置きなわけですが、ようやっと柴田南雄の音楽の話です。
ちょうど生誕100年、没後20年というタイミングで柴田作品を集めた演奏会が開かれ、
そのようすがEテレ「クラシック音楽館」で放送されたわけですけれど、
先にもふれたとおりに現代音楽で痛い目にあった経験からも
「怖いもの見たさ(聴きたさ)」で録画し、演奏会そのものに行っているのではない分、
無理だと思えば止めたらいいやと考えていたのでありました。
が、結果的にどうだったのかと申しますれば、非常に興味深いなと思ったのですね。
取り分け、合唱曲「追分節考」と交響曲「行く川の流れは絶えずして」という、
柴田作品によくあるらしい(とは初めて柴田作品に接するもので)シアターピースの2曲が。
「シアターピース」を辞書検索しますと「演奏者の行為(演技)を中心に計画される音楽作品」で
「ステージのみならず、通路・客席を含む劇場空間全体を活用する作品が多い」とあり、
特に「追分節考」では歌い手がホールの中を動き回っている姿(もちろんゆっくりとですが)が
映し出されていて、シアターピース感強しの印象でしたですよ。
しかもこの曲、全体を通しての譜面というものが無く、素材というか、断片というかがあるだけ。
指揮者は番組ディレクターのキュー出しよろしく、どのタイミングでどの素材を演奏するのか、
ステージ上から指示出しをする役割なのですね。
ですから、基本的に同じ演奏は二度とあり得ないという一期一会の音楽体験とも言えるような。
と、ここまで来て、一期一会の音楽体験であって、しかも
ホール内を動く気配?までが音楽であるてなことでふと思い当たるのが
偶然性の音楽ということでありますよ。
最も極端な例は前に触れたことのあるジョン・ケージ
の「4分33秒」という曲(?)。
何も演奏されない中で、4分33秒間の耳そばだて体験がイコール音楽体験であるという。
例えば後の人の吐息、隣の人の衣擦れ…そんな偶然生ずる音たちを音楽と受け止めるのですな。
こうなると、音楽は美しいものであるとかいう括りの外で音楽って何?となってこようかと。
柴田作品にはもそっと従来型の音楽として捉えられる要素は存在しているものの、
それだけは作品が完成しない以上、偶然性の音楽と言える部分もありますね。
ということで、だらだらと長くなりましたですが、美術の美しさ云々と昨日に書き出したことと
いささかなりとも音楽で近いところにたどり着いたような。
考えるところの延長線上としては、先に書いた「一期一会の音楽体験」とは
とても日常的なことなのだと思えてきたのでありますよ。
例えば自宅にいてCDを音源にステレオを通して音楽を聴くときに
CDに収録されている音の信号は基本的に不変としても、聴いている環境の違いから
偶然の生活音が紛れ込む、また聴く側の体調や心理状態でも聞こえ方が変わる。
録音再生であっても、全く同じ音楽は全くないのですよね。
そして、偶然の生活音に「あ~あ」と思うときはあるものの、
時にはそうした音も再生音とともに音楽として聴いてしまうときもあるにはある。
そして、美しいと思って聴いてしまっていることも。
傍目(傍耳か?)には雑音でも、聴き手、聴き方によっては音楽になっている…ということに
なりますよね。やはり音楽とは何ぞ…と考えるに至るわけで、柴田南雄作品との遭遇は
そうした点でとても興味深いと思ったのでありますよ。