先に読んだ『唱歌「蛍の光」と帝国日本』の中に、こんな一節があったのですなあ。
…一八八七年頃から、『小学唱歌集』に類似した唱歌集が多数出版されるようになり、これを使った唱歌の授業が全国の小学校で行われていった。他方で、軍歌が子どもの歌に影響を与えるようになり、特に日清戦争を契機に流行して、軍歌集が文部省検定済の教材として各学校で採用された。しかし、唱歌に対する批判も強くなり、歌曲としての水準の向上を目指した滝廉太郎の作品(「鳩ぽっぽ」「水あそび」など)や、子どもにわかりやすい唱歌を作ろうとする言文一致唱歌運動の作品(「金太郎」「桃太郎」「浦島太郎」など)が生まれた。
いわば「童謡」の誕生はここにありということでしょうかね。それにしても、軍事色が子ども向けの歌にも入り込んできたという時代背景の中にあっても、上から(国民教育という装置を使って)押し付けられる唱歌とは別の動きがあったことに、いささかなりとも安堵するといいましょうか。この時に生まれたとされる「金太郎」や「桃太郎」などはいかにも童謡としてしか受け止めていませんでしたけれど、意味合い深いものがあったとは知りませなんだ。
と、そんな頃合いに時を同じくして「滝廉太郎の作品」が作られたことが挙げられておりますな。♪春のうららの隅田川~と、誰もが知っているであろう「花」や「箱根八里」など、確かに滝廉太郎は歌曲の作り手として知られているわけですね。さりながら、ライプツィヒに出かけたときに「そうであったか、滝廉太郎はここの音楽院に留学していたのであったか…」と気付かされたところながら、明治になって入ってきた西洋音楽の担い手として将来を嘱望され、ドイツに官費留学した音楽家という認識はあまり無かったのですよね。
で、たまたまにもせよ、これまた先日に谷津矢車の『ええじゃないか』を読んだ折、同じ作者に滝廉太郎の生涯を描いた小説があるとして気にはなっていたものですから、これを機会と手に取ることに。『廉太郎ノオト』なる一冊でありました。
作者は基本的に歴史小説・時代小説の書き手のようですので、主人公が滝廉太郎とは思いつつも明治を扱っても歴史小説ではあるか…てなふうにも。とはいえ作者自身かなりクラシック音楽を愛好しているのか、音楽や楽器演奏にまつわる描写は的を射た書き込みであるように思えたものです。それとも、元からの興味はなくとも書く対象となればここまでできる、というのが小説家の職人技なのでもありましょうか。
話は小説ですので全てが史実であるかのように受けとめるのは適切ではないにせよ、廉太郎の音楽の素質は大変なものであったことが窺えますな。取り分けピアニストとして精進するようすがしっかりと描き込まれておりますよ。東京音楽学校(後の芸大)で予科・本科・研究科と研鑚を積む傍らで、作曲に手を染めていくところもまた。
そして、先に触れました童謡作りに絡むエピソードとしては、音楽学校の先輩である東くめ(「日本で初めて口語による童謡を作詞した」とWikipediaに紹介されておりますな)が廉太郎にこんなことを語っているのですな。
今、音楽学校が作っている唱歌の多くは文語体のものばっかりで、歌われるのは勇ましい軍人精神だったり唐国とか本邦の故事だったり。いえ、それが悪いとは言わないけれど、それだけじゃいけないとわたしは思っている。
わたしは、口語体で身近なものを描いた唱歌があってもいいと考えてる。正月の喜びを形にしてもいい。鳩に餌をやる時の心の動きでもいい。そんな、細やかで、皆が取りこぼしてしまうような心の動きを描きたいの。子供からしても、身近にあるものを歌うほうが楽しいんじゃないかって思うのよ。
ここから廉太郎とくめのコンビによる「お正月」(♪もういくつねるとお正月~)や「鳩ぽっぽ」(♪ぽっぽっぽ~鳩ぼっぽ)が生まれたのありましたか。ただ、廉太郎の作曲は器楽曲にも向けられていて、ライプツィヒ留学でのは最新の作曲事情にも大いに関心をしめしていたのですよね。さりながら、そんな廉太郎を病魔が襲うという。留学先で結核を病み、1年余りのドイツ滞在(かなりの期間の入院も含め)で帰国の止む無きに至ってしまうわけです。
その後も回復ははかばかしからず、帰国して1年足らずの1903年、廉太郎は23年の短い生涯を終えてしまったのであると。こうしたことと、本書のカバー絵やよく知られた写真に見る姿からしても、線が細く元々頑健なタイプではなかったのであるかと想像していたのですけれど、どうやら実はスポーツマンだったようなのですね。「廉太郎は運動が得意だ。高等小学校の頃から足の速さは学年随一だったし…」といった一文もありますし。小説で史実とは必ずしも一致しないとしても、こんなことまでは創作しないでしょうからねえ。
実際には体力自慢だったにもかかわらず、ライプツィヒで結核に冒されてしまった。先に留学していた音楽仲間でヴァイオリニストの幸田幸(幸田露伴の妹、やはりヴァイオリニストの幸田延は姉)とドイツで再開した際、ベルリン音楽院で自分と一緒に学ぶよう勧められる場面が出てきますけれど(これは小説上の脚色かもですが)、もしもこのとき廉太郎がベルリンに留まっていたならば、その後の日本の西洋音楽受容が違ったものになっていったのかもしれませんですねえ。もちろん、歴史に「もしも…」はないわけですが…。