さて、大阪・吹田市の千里山にある関西大学博物館で考古学資料をあれこれ眺めたわけですが、建物の外、入口脇にはこのようなガラス張りの展示スペースが設けられているのですな。曰く「高松塚古墳壁画再現展示室」と。

 

 

そも昭和47年(1972年)の高松塚古墳発掘調査は橿原考古学研究所によるものですけれど、同所の初代所長が関大で教鞭をとっていたりした関係もありましょうか、「関西大学考古学研究室の大学院生や学生が参加して行われた」ということなのですね。

 

発見当時は色鮮やかな壁画が出たとして記念切手まで発行され、この切手を通じて壁画はとても見覚えあるものとなりましたですが、その後に壁画がたどった悲惨な状況は多くの方が知る所となっておりますな。現在の状況として、国営飛鳥歴史公園HPに曰く、このようになっておると。

墳丘の発掘調査と石室の解体修理は2006(平成18)年10月2日に開始されました。 2007(平成19)年1月には古墳全体を覆う断熱覆屋が完成、内部の温湿度は10℃、90%に保たれています。 同年3月には歴史公園内に修理施設が完成、石室はいったん解体・搬出した後、この修理施設へ移され、令和元年度まで修復が行われました。 修復された壁画は、引き続き文化庁による保存管理が行われており、年に数回一般公開が行われています。

全くの非公開状態ではなくなっていたのであるか…と知ることにはなったものの、それでも「年に数回の一般公開」とあっては、かつて日本に「モナリザ」がやってきたときのような黒山の人だかりもかくや(例えが古いですな…笑)かと想像すれば、おいそれと見ることもできないような。で、その代わりといってはなんですが、こちらの壁画再現展示室の存在意義が出てくるわけですなあ。

 

 

ガラス張りの外周の中にはこんな感じで石室が再現され、その内側に陶板画(鳴門の大塚国際美術館と同じ技術でしょうか)が貼り付けてあるということなのでありますよ。

 

 

ひび割れのようすなども含めて、リアルですなあ。ちなみに入口側にはちゃあんと「盗掘孔」までありますですね。

 

 

でもって、肝心な壁画です。今から1300年以上も前に描かれたとは思われない鮮やかさを、発掘に携わって初めて目にした方々は腰を抜かさんばかりだったことでしょうなあ。

 

 

 

古墳時代の埴輪も研究によってさまざまなことが分かるにしても、動的なようすは分からない。もちろん壁画といえども平面に静止しているわけですけれど、行列の動きのようなものが感じとれる、それが絵画の良さでもありますし、それが色彩を伴っているとなれば、当時のようすを窺い知る大きなよすがとなるわけで。

 


 

ということで、実にたくさんの見聞を得て「摂津高槻紀行」(とそのついでの寄り道のお話)は全編の読み終わりにございます。長い話にお付き合いくださった方々には改めて御礼を申し上げます。だいぷ傾向は異なる話になりますが、こののちしばらくは「静岡焼津紀行」をご覧願えましたら幸いでございます。ではでは。