わざわざ大阪・茨木市の川端康成文学館を訪ねたりもしながら、その実、川端文学にはさほど接していないのですなあ。せいぜい『伊豆の踊子』、『雪国』、『浅草紅団』、そして『千羽鶴』っくらいでしょうかね。ですので、この機にまた一冊と手に取ったのが『山の音』という一作。『千羽鶴』と同時期に書かれた、鎌倉を舞台にした物語でありました。
どんな話であるかは、取り敢えず文庫カバー裏の紹介文でもって。ちと長くはなりますが。
尾形信吾、六十二歳。近頃は物忘れや体力の低下により、迫りくる老いをひしひしと感じている。そんな信吾の心の支えは、一緒に暮らす息子の嫁、菊子だった。優しい菊子は、信吾がかつて恋をした女性によく似ていた。だが、息子には外に女がおり、さらに嫁に行った娘は二人の孫を連れて実家に帰ってきて…。家族のありようそ父親の視点から描き、「戦後日本文学の最高峰」と評された傑作長編。
今振り返りますと『千羽鶴』を読んだときには、読み手にまざまざと情景を思い浮かべさせる川端の文章を激賞していたのですけれど、いささかの年を経て読んだ『山の音』の印象は、もそっと内面的なといいましょうか、登場人物、特に主人公の心理の機微を想像させるスイッチの仕込み具合に感心せざるを得なかったといいましょうか。
極めて簡単に言ってしまいますと、上の紹介文にありますとおり軸に舅と嫁の関係が描かれて、結局のところ他人であるこの二人の心模様は(いわゆる社会通念上)実に危ういところをふらふらしているようなのですな。もっぱら主人公目線で語られることからすれば、ここで言う以上に淫靡なものであるとも言えそうです。
そうでありながら醜悪にならない、ぎりぎりを知って書いているのでありましょう。人間の陰の部分、隠れた闇の部分、こういったものを抉るように描き出す小説作品は、昨今枚挙にいとまないものと思いますが、読み手にはっきりと突きつけるのはなくして、読み手の方で勝手に想像していったしまう書きようは、まったくテクニカルでないような、淡々とした文章でありながら、計算され尽くしたものなのかもしれません。
しかも、そうした計算づくに思える長編小説が、いわば連作短編のように時々、折々に章ごとが一篇として雑誌に発表され、書き継がれたものとなりますと、全体像の構想が始めにどこまであったのかを考えてしまいますな。書きながら、膨らませていくにしても、全体の統一感はあたかも最初から長編として書き下ろされたようにも思えるところですし。
思い浮かぶ川端康成の姿は、もはや老人の痩せぎすで眼光の鋭さばかりが強い印象を与えるとったふうでもありますけれど、長年にわたって書かれてきた川端作品は常に老人の作ではないわけです。が、この作品のように主人公の老いを語るに、読み手としてその年齢のようすが想像に難くない段階になってきますと、作者が自らの老いをも意識して書いているのかと思ったりするところながら、この『山の音』は川端が50代そこそこで書いた作品なのですなあ。ノーベル賞作家に今さらですが、やはり大した書き手なのだと今回も思い知るのでありましたよ。
いつまでも文庫に残る作品は、ロングセラーだからという場合もありましょうけれど、一方で「読み継がれるべき」という送り手(出版社とか)があるからとも言えましょう。確かに70年も前の文章には、今となっては違和感ある表現や言葉遣い、受け止め方に戸惑うところもありますが、露悪的にならずに人間を描き出す文章作法を知るという点で、まだまだ読み継がれていい作品であろうと思ったものでありました。
というところで、二日ほどお休みを頂戴して静岡へ行ってまいります。ちょうど『千羽鶴』を読んだ頃に静岡市立美術館(「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」展が開催中でした)に出かけたことを思い出したからというわけではありませんが、また美術館にも立ち寄ろうかと。では、次は12月4日に土産話をもってまたお目にかかりたく存じます。ではでは。