先に国立天文台野辺山宇宙電波観測所へと出かけたことを書いた折、ちらりEテレ『コズミックフロントΩ』のことを引き合いに出したときにはもう、最終回が終っていたのですなあ。例によって録画を(相当)後から見ているもので、遅まきながらのお話ではありますが。
時にその最終回で扱われていたのが「宇宙の終わり」ということ。宇宙の始まりにはビッグバンがあったと知られるようになったはいても、果たして終わりはどんなふうに迎えるのかが分かっておらないのであると。予て収縮説(だんだんと小さくなっていって、やがて消滅?)や減速膨張説(今よりスピードは緩くなるも拡大を続ける)や、そんな説が出ていたようですけれど、だんだんと研究が進む中では、宇宙は「ユニバース」でなくって「マルチバース」(つまりユニ=単一でしにマルチ=たくさん)であるというようなこも言われておるとか。
とかく人は(と敢えて一般化して言ってしまいますが)自らの知見や理解の及ぶ範囲内で物事を理解しようとして、それを逸脱することはなかなか受け入れられないものでありましょうね。現代から、例えば中世を振り返って、さまざまに理不尽なことがまかり通っておったなあということがありますけれど(そうですねえ、例えていうなら魔女狩りとか地動説への反応とか)、考えてみれば当時の人にとって咀嚼可能な範囲を超えることを受け入れる忌避感の発露だったのでしょう。ともあれ、何かしらを受け入れにくく感じるということは、科学技術が進むなら進むなりにも、時々で起こりうることであろうかと。
いささか例えが不穏当だったかもしれませんですが、「マルチユニバース」といった考え方もなかなかに捉えどころがないような。何しろ「宇宙」なるものがまだまだ判然としない中で、その「宇宙」なるものがたくさんあるのだ…とは腑に落ちる取っ掛かりが無さすぎであるなと、番組を見た当初には思ったものなのでありますよ。
さりながら、広大な宇宙の果ては…といったふうに人間サイズで見るモノの見方を離れると、(分からない者は分からない者なりの発想で)「あ!そういうことか」と思ったり(自身、気付いてみれば以前にもそんな考えを持ったことがあったなあと)。
要するに、人間サイズの目線でなくして神様目線というと語弊がありますけれど、人間が極小世界を電子顕微鏡で覗くようなイメージで、そういう大所高所から見ると宇宙は細胞のようなものであるのかもしれんと想像してみたわけなのでありますよ。
人間サイズでミクロの世界に分け入りますと、細胞という小さな単位にも、その中にたくさんの構成要素があるわけでして、仮に宇宙をより大きな大きな枠組みの中のひとつの単位とすると、その中には銀河も地球もそしてヒトも、それぞれのサイズに違いはあるものの、やはり構成要素でしかない。そして、遠く引いたところから見たならば、広大無辺とも思っている今の宇宙が閉じた細胞のひとつでしかない…のかもしれません。
宇宙の誕生、ビッグバンとはひとつの細胞の誕生の瞬間であって、その細胞にはやがていつの日か終焉が訪れて消滅してしまう。つまりは宇宙の終わりですけれど、それを閉じた中の世界にいる者は心配しますけれど、見方によっては新陳代謝でしかないとも。
そんなふうに考えてみますとと、細胞はたくさんあって何かしらの全体像を作っているように、宇宙もまたたくさんあって、人間には計り知れない「何か」の構成要素である…てなふうにも思えてきますけれど、これを否定する材料は今のところ誰も持ち合わせてはいないのではなかろうかと。
我ながら雲をつかむような話であるなと思う一方で、やはり先日のNHK『映像の世紀バタフライエフェクト』の中で、バックミンスター・フラーの言葉をスティーブ・ジョブズがスピーチに引用したものとして紹介されていた「stay hungry, stay foolish」というひと言が思い出されますなあ。かつて愚か者扱いされた人の中にアインシュタインの画像なども含まれていましたけれど、ハングリーかどうかはともかくも、フーリッシュであること、これを既成概念に囚われないことと受け止めればいいのかもしれませんですね。
と、本当は『コズミックフロントΩ』の話をマクラにして、野辺山観測所の見学コース沿いに置かれた解説でもって得た天文学の知見をまとめようかと覆っていましたけれど、(よくあることながら)マクラばかりが長くなってしまい…。柳家小三治じゃないんだから…と一人ボケ突っ込みしつつ、天文学のお話はまた折を見てということに。