さてと、摂津高槻の旧城下町をゆらりとしに出掛けたのでありますよ。街角の案内板やら道標やらを気にかけつつも、阪急高槻市駅の駅ビル(というのでしょうか)エミル高槻の中にある観光協会で手に入れた「高槻散策マップ」の城下町編が最も頼りにしておりました。

 

素通りされたくない町・高槻としては、この手のものに力が入っているらしく、この散策マップだけでも11種類も用意されているという。高槻は見どころいっぱいですよとアピールに余念がないわけですけれど、とりあえず阪急京都線の南側、高槻城の城下町へと歩を進めたのでありました。

 

 

駅南側のごちゃごちゃっと小店の並ぶエリアを抜けて、やたらに大きな車がたくさん通る国道171号線を渡り越しますと、そこから先は至って静かになりました。交差点に大きく「北大手」と出ていましたので、すでにかつての高槻城の縄張りのうちでもあろうかと。

 

まずは散策ガイドの紹介ルートにのっかって進みましたが、ガイドに紹介文は無いものの地図上に場所が示されているお寺さんが三か所、固まって建っているあたりが歴史を遡って昔へと誘う入口ともなるような。

 

 

 

 

上から起行山総智院理安寺、霊瑞山深入院光松寺、常智山本行寺で、先のふたつが浄土宗で、3つめは日蓮宗のお寺さんですけれど、門前の解説板にあった、理安寺と光松寺は創建時期未詳、本行寺は比較的新しく?慶長元年(1596年)創建てな紹介文から想像を逞しくしますと、前二者はキリシタン大名として知られる高山右近による寺社破却の難で寺伝が失われたものであるか、後者については右近が明石へ移封された後の創建であるか…と思えてきたりもするのですなあ。ちなみに写真に見えている本行寺の山門はかつて高槻城内にあった高麗門を移築したものであるそうな。

 

 

と、寺町を過ぎると町家が並ぶ一帯に。街角には愛宕信仰による火除けの灯篭に「火廼要慎」と。右近の時代には大いにキリシタンが増えたようですけれど、こうした古来の土俗的な信仰と言いますか、右近がいくら寺社を目の敵にしようとも、人々の心の中には自然信仰の部分はいつまでも残ったのではないですかね(といって、この灯篭が右近の時代にまで遡るものとは思いませんが…)。

 

しかしまあ、このあたりは高い建物はほとんどありませんですね。だからといって、景観が昔のままに保存されているということでもないですが、時折、ああ昔ながらの町家であるなという建物に出くわしたりします。

 

 

 

なんとも中途半端な二階建てのように見えますけれど、この二階の低い造りが特徴だそうでありますよ。二階部分はもっぱら倉庫に使われていたてな話も聞きましたが、はて…。

 

 

散策マップのルートとしては城の東側の堀(今はありませんが)に沿って南下している状態。ここに高槻城の東大手門があったのですよと、解説板が無ければ間違いなくスルーしてしまうであろう路地を過ぎますと、ほどなく八幡大神宮に到着です。

 

 

八幡神といえば武家の尊崇篤いところかと思うところながら、先ほどのお寺さんとも同じくここもやはり創建時期は未詳。すわ右近の餌食となったか?!とは不穏当な言い方かもですが、お寺さんも神社も右近が明石に移って以降、何度も城主が変わったその城主それぞれの信仰によって、庇護されたようですなあ。ちなみにこの神社の再興に力を尽くしたのは後に岸和田藩主に転じる岡部宣勝だそうでありますよ。

 

 

さてまた道を回り込んで、今はお城の南側のお堀沿いに当たる道を歩いています。南側に限らず、時折道がこんなふうにクランク状になっているのは、要するに桝形の名残なのではなかろうかと。というところで、お城の南大手門があったとされるところから、いよいよ高槻城の中心部へと向かうことにいたします。