つねづね歴史を読み解くときには批判的な目線で見ることが必要とは感じておるところながら、これは過去を振り返る場合ばかりのことではありませんですね。現実に目を向ける際にもやはり必要なことであろうと。現にあることをそのままに、例えばこれまで通りのことを「これまで通りだから」という理由だけで当然のように考えてしまう(というより、何も考えない?)のは実に危ういことなのだよなあと、映画『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』を見ながら思い巡らしたりしたのでありますよ。

 

 

日本のどこかにあるらしい津平町は、川を挟んで対岸にある太原町と交戦状態にあるようす。町でふつうに暮らす人たちが、毎朝町役場の広場?に集合して準備体操をした後、隊列を整えて前線である河原へと行進していくのですな。9時の時報とともに戦闘開始が告げられてひとしきり銃撃戦が展開されるも、夕方5時の時報とともに戦闘中止が宣されると兵士一同、「お疲れ様」と言って家路につく。実に淡々と同じ毎日が繰り返されるわけです。時には負傷者も出ますし戦死者も出るのは、正しく戦争だからでありましょうけれど、どんなときでも誰しもが淡々としているのでありまして。

 

そんな日常の中、「なぜ戦争しているのか」という点では「ずっとやっているから」ということしか誰も言えないのですな。加えて、交戦相手の川向うの町がどんなところなのか、それさえ誰も知らない。ずっと戦っているから、誰も行ったことがないわけで。とにかく戦争しているのだから、向こう側にはきっと何か悪いことがあるのだろうと想像するくらいでしょうけれど、そうした想像をすることさえも、どうやら考えてもみないことのようです。大仰になりますけれど、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判で被告人の「思考停止状態」を見切ったようなことを思い出してしまいましたですよ。

 

現在の状態を肯定するということがひたすらに悪いわけではありませんですね。要するに「慣れている」状態というのが(たとえ9時から5時までの戦闘状態があったとしても)いわば平穏な状態なのでしょうから。さりながら、本当にそれでいいの?と思うことを忘れる(つまりは思考停止状態ですな)のは、決して将来的にも同じ状態が続くとは限らない。政治というとまた大げさかもしれませんが、注視しているということ無しには、少しずつ少しずつより悪い方へ慣らされてしまうだけでもありましょう。

 

このことは時代を問わず言えることですし…という以上に今現在、まさにこのことを考える必要があるのではなかろうかと思ったりもしているのですが、ざっくり世の中的には「今のままでいいじゃん」てな思いが、特に若い世代にもあるようで…。かつてのように職場での出世をがつがつ?望むふうでもないとは聞き及んでおりまして、「今がよければそのままで」という発想も分からないではないですが、先に触れた「思考停止」とニアイコールな気もしてしまうのですなあ。

 

この映画では、隣町と戦争状態という現状を誰も疑問視することなく淡々と日々が送られるわけですが、ほんのちょっとでも状況に変化をと考えたときに引くのか進むのかという選択で、進む方を採ってしまう。引くというのが後ろ向きな印象でもあろうところながら、そも「なぜ戦っているのか」が分からない戦争を先に進めることに果たして意味があるのか…。ともあれ、河原の銃撃戦に巨大な大砲が登場し、隣町に壊滅的な被害を与えてしまう。そして、その結果が報復攻撃を受けるとは不毛以外のなにものでもない。

 

「現状」なるものも静止はしておらず常に動いているものですから、実はそのままとはなりにくい。少しでも疑義があったら「そのまま」にしておいてはいけんのではと疑うことを忘れてはいけんのでしょうなあ。