引っ越しの手伝いはあまりに暑い最中でしたので、二日に分けて一日目はものを運び込み、二日目は収納に収めるといったところでありましたよ。運び込んだ段階では足の踏み場も無いというわけで、近くのホテルを用意してもらっておったわけですが、それがこんなホテルでありまして…。
2015年に長崎のハウステンボス内に最初のホテルができて、ひと頃は何かと話題になりましたのでご記憶の方もおいでかと思いますが、その名も「変なホテル」。そのひとつで「変なホテル東京浅草橋」というのが、一晩の宿ということに。で、「何が変?」といって、フロントに人がいないのですなあ。無人ではありますが、代わりにロボットが応対してくれるのでありますよ。
ロボットといっても、この妙にヒト型をした作りは何とも不気味で、怖がりな者には笑いも凍り付くような。用意してくれた側としては、暑い日々にはうってつけ?!と考えたかどうか…。いやはやです。とまれ、近づいていきますと「いらっしゃいませ」的に、まあ、考えてみればフロントの係の人というのも、毎回同じことをそれぞれの客と応対することになるので、それがロボットに置き換えは可能となるのかもしれませんなあ。
さりながら、話かけはするもの、手を動かすことはありませんので、目の前のモニターを通じてチェックインの手続きをしたりすることになるのですよね。仕掛ける側としては分かりやすくしているつもりでも、場合によってはモニターを見ながら「?」となることもあり、そうすると電話でもって(どこかに隠れている?)人間のスタッフと話をすることになる。こうなると、苦笑するしかないような…。
フロント階の片隅には、こんなちびロボ軍団が時折音楽にのせてダンスを披露するというパフォーマンスもありましたですが、こちらのロボット、ロボットしたのがフロントにいたのならまだ可愛げがあったのになあと思ったりもしたものです。どのみち、ヒト頼みになってしまうところがあるわけですしねえ。
と、そんなこんなの「変なホテル」ですけれど、まあ、客室は至って普通ですし、これ以上取り立ててお話することもありませんですよ。ですので、夕食に出がてら近辺をぶらり、神田川から隅田川のあたりへと散歩したお話を少々。
ホテルはその名のとおりにJR総武線・浅草橋駅のすぐ南側、でもってもそっと南下するとすぐに神田川に行き当たるのですけれど、今さらのお話ながら「浅草橋」という橋が実際にあったのですなあ。長らく東京に住まいしていながら、このことを始めて意識したような次第です。
お江戸の中心部から浅草方面に向かう道に掛かるから「浅草橋」でしょうかね。神田川が隅田川に出る手前、二番めの橋でして、合流点にいちばん近いお隣の橋がかの有名な?「柳橋」になりますですね。こちらです。
今でも「柳橋芸者」てな言葉が残るほどに知られた、江戸期以来の花街でして、料亭や船宿も数多。柳橋の船宿で一杯ひっかけて船を繰り出し、吉原へ…てなようすも落語などで知ることができますなあ。落語『船徳』は、大店の若旦那が放蕩三昧の挙句に勘当となり、馴染みということで柳橋の船宿に転がり込み、あまりに暇だからと船頭の真似事をするも大失敗の連続という話でしたなあ。
今でも柳橋から浅草橋とその先にかけて、神田川沿いには出番待ちの屋形船がたくさん係留されておりましたよ。このあたりに来ますと、隅田川から結構な風が抜けてきて、夏に納涼の舟遊びなんつうのがお江戸のお大尽の風流だったのだろうなあと。今では家族連れやグループで、江戸前のキスの天ぷらんなどで船上宴会が行われるのでしょうけれど、このコロナ禍ではやはり出番も減ったのでありましょうね。
とまあ、そんな柳橋を浅草方面に渡った右側、隅田川に近い側に、現代風のビルになってはいますが「亀清楼」の看板を発見。「おお、ここか!」と思いましたのは、先に読んでおりました『奏鳴曲 北里と鷗外』に出てきたものですから。森鷗外や北里柴三郎、後藤新平なども寄り集まって「亀清会」なる定例会合をここで行っていたのは史実かどうかは分かりませんですが、小説『青年』の中にも登場するということですから、少なくとも鷗外は客だったのでしょう。Wikiには伊藤博文が利用したとありましたな。同サイトには伊藤と柳橋芸者にまつわるエピソードも紹介されておりましたですよ。
ということで、隅田川に出ました。正面に東京スカイツリー、対岸は両国でこちら側がいわゆる蔵前になるからでしょうか、川沿いにはなまこ壁を模した堤防がずっと続いていたですな。束の間、お江戸の粋人にでもなったつもりで川風に吹かれながらそぞろ歩き。「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟…」とは講談や浪曲で知られる『天保水滸伝』の一節で、川風がらみでついつい思い出しましたが、そも隅田川、お江戸のいわゆる大川はもともと利根川の流れであったのだったねえなどということも思い巡らしたりしたのでありました。