もう二週間くらい経って何とも無いので、まあ、影響は無かったと言ってよかろうかと。コロナ禍が騒がれてすでに2年半に及びますので、その間には感染リスクとの遭遇など、経験された方がたくさんおられるものとは思いますが、個人的には最大のリスクの顕在化であったとはいえましょうか。
先日にとある窓口であれこれと話を聴いてきた翌々日、応対していた担当者の上司という方から電話をもらいまして、件の担当者がコロナの陽性が確認されましたが、そちらでは何ら変調はありませんでしょうかと。話に曰く、保健所に相談したところでは「濃厚接触者にはあたらない」という見解があったと伝えてはくれましたですが、どうも気休めにしかならず。ワクチン接種皆無の者としては、ですけれどね(いろいろと事情がありまして…)。
当の担当者とはアクリル板で仕切られた状態で、双方共に当然ながらマスクをして話をしたいましたけれど、ペンの貸し借りのようなこともあったりしたわけで、保健所としてどの程度のことをもって「濃厚接触者であるか否か」を判断するのであるか?と思ったものです。
ともあれ、そんな中でせっかく減少してきていた感染者数のグラフはまたまたこれまでにないほどのうなぎ上り状態で、全くもっていやはやです。ですが、このいやはや感は、相変わらずどんなことになっているのかよく分からないところから来てもいようかと。これまでの2年、真夏でも「マスク、マスク!」と言っていたのが、ここに来て「熱中症になるから、マスクを外して」てなことが頻りに言われておりますな。新型コロナ・ウイルスに関する知見の積み重ねがあって、かような見解が示されるのかもしれませんけれど、一般の感覚として「なにがどうなっておるやら」と思うところです。
そんなところへ持ってきて、先に読んだ『奏鳴曲 北里と鷗外」の、作家であって医師である(鷗外のようですな)作者から「あとがき」にかようなことが記されたりしますと、「そうなんだよねえ…」と思ったり。ちと長いですが、こんな内容です。
明治時代、内務省は欧州から学んだ最先端の医学を基本とし、優れた対応をしていました。
海軍も疫学的研究を土台に対応し、脚気を激減させています。
ひとり陸軍だけが、脚気に関する統計をごまかし、誤った対応に固執して多数の兵を損じ、その死者の数は戦死を凌駕しました。
昭和になると陸軍軍医部は更に暴走し、関東軍防疫給水隊(七三一部隊)を生み、中国大陸で生物兵器開発、人体実験へ向かいます。内務省も引きずられるようにして、特高警察が人民の弾圧に励むようになり 、変質していきます。
それは日清・日露両大戦で、脚気蔓延の事実を隠蔽した石黒忠悳、それを継続した森鷗外の対応が源流だと言えるでしょう。それはコロナに関し、衛生学の基本をないがしろにして医学統計を発表せず、科学的根拠に基づかない対応をし続けている、政府や厚生労働省の姿と重なります。
これは、過去の物語ではないのです。
鷗外先生はその上司にあたる石橋忠悳ともどもずいぶんな言われよう(実際、『奏鳴曲』を読むと鷗外は「なんだ、こいつ!」としか思えなくなってきます)ですけれど、ことさらに両名を論うのとは別に、今も昔もの「隠蔽体質」を思ってしまいますなあ。マスクをさせるのか、させないのか。行動を規制するのか、しないのか。何に基づいて、どういう判断で決めているのか。「なにがどうなっておるやら」という分からない感はそうしたところから出ているのでありましょう。
かつての大本営発表に踊らされるほどの愚は今や持ち合わせていないと思うのですけれど、発表(裏返せば隠蔽ですな)する側としては結局のところ受け手の側(つまりは市民でしょうか)をマス、塊でしか見ていないのですよね。感染者数にしても数字で見ているだけでしょうし。経済を回さなければ国が立ちいかないから、多少(?!)の犠牲があったとしても仕方がないとおおっぴらには言わないものの、発想としては明治期に足尾鉱毒事件を国策優先で放置したのとなにも変わっていないようにも思うところです。
…と、政治向きの話はしても詮無いのであまり触れずにいるものの、時折噴出するものがあったりしますですが、ともあれコロナ第7波とやらはこの後さらにどんな推移をたどりましょうや。この際、思い切り個人的な思いで愚痴りますが、2019年11月の大阪行き以来となるひとり旅を8月のあたまに目論んでいるもこれをどうするか、しばし逡巡の日々となりましょうかね…。嗚呼。
そんな状況下ではありますけれど、「なぜこの時期に?」とも思える引っ越しの手伝いで都心に出かけ、一泊してまいります。まあ、繁華な場所には近寄りもしないはずですのでね。ということで、明後日にまたお目にかかることになりますです、はい。