しばし前の新聞の連載コラム『よもやま邪馬台国』(2022年5月31日付東京新聞)で見かけたのですけれど、『魏志倭人伝』に伝わる伊都国(福岡県糸島市周辺)の遺跡発掘に触れて、こんな一文を締めくくりにしておりましたですね。曰く「海人たちはクニの枠を超え、自由な海洋ネットワークを形成していたらしい」と。

 

ここでいう「クニ」というのは今の「日本国」といった括りではなくして、もそっと小さくあちらこちらに割拠していたまとまりの一つでありましょう。遺跡の発掘から歴史の流れの区分けに従えば弥生時代の後半ということに。そんな昔にあった国かと思うところながら、『魏志倭人伝』が書かれたのが3世紀末ごろとされますので、日本史的にはいわゆる古墳時代が始まった頃とも言えましょうか。とまれ、この頃には小さな単位での海の向こうとのやりとりが盛んに行われていたのであるなあと思った次第でして、そんな折に手にした一冊が『倭国の古代学』というものなのでありました。

 

 

本書のタイトルにある「倭国」ですけれど、かつて日本が倭国として大陸に知られていたように昔々の日本史の授業を思い起こすところながら、果たして当時すでに「倭国」というような国としてのまとまりがあったのであるか?(反語です)ということを詳述してくれている本なのですな。先に触れた新聞コラムの記述にしても、金印として知られる「漢委奴国王印」の(解釈はいろいろあるようですけれど)漢の倭の奴の国王との印面を改めて考えたりしても、「倭」というのは早くから「倭国」としてあったのではなくして、いわゆる倭人(日本列島とその周辺に住まう人)の生活圏をざっくり示す地域の呼称だったのであるかと受け止めた次第です。金印が告げているのは、漢に朝貢してくる倭という地域にある奴国といった具合に。

 

九州に限らず、倭の地域にはさまざまな地域にそれぞれ権力を持つ人たちがいて、独自にルート開拓をして大陸や朝鮮半島とのつながりを持ち、盛んに行き来をしていたのであると。それがさも「倭国」というものがあって、統一的に大陸や朝鮮半島とのやりとりをしていたかのように考えてしまうのは、天皇の統治のもとに一本筋の通った統一国家の歴史があるように『日本書紀』が書き残しているからでもありましょうかね。

 

後に幕末維新の頃、「万世一系」という言葉とともに天皇を頂点とする国のありようが称揚された際には『日本書紀』の記載を鵜呑みにしてかかることこそ大事だったのかもしれませんけれど、神武天皇から始まる皇統の始まりは神話であることを誰もが知っている中では、考古学・歴史学の研究の結果として、どこまでが神話でどこまでが史実(見極めは極めて難しいでしょうけれど)であるかについて思いを致して、いつまでも一緒くたにしておいてはいけんのでしょう、きっと。

 

本書では古墳時代を中心に、いわゆるヤマト王権として知られる周辺には多くのヤマトに匹敵する勢力(独自の海外通商も含めて)があったことを示しておりますね。「キビ」(岡山県)とか「キ」(和歌山県)とか、そもそもそれ以前にヤマト(奈良県)においてさえ、数多の勢力が割拠して、それが合従連衡などしつつ、最終的にはヤマトの王がまとまりを付けることになっていったようで。そのようすからしても、これを「倭国」というひとつのまとまりが先にあったかのように見るのはやはり適当ではないのでしょう。

 

ヤマト中心に考えてしまいますといわゆる前方後円墳という形の広がりも、あたかも中央たるヤマトが伝え許したかのようながら、形は要するに流行りであった、大型でしかも手がかかる古墳の形をそれぞれの地域で造営できる権力者がいたということにもなろうかと。確かに最も巨大な古墳群は畿内にあるとしても、それぞれにそれなりの巨大古墳があるわけですから、これをいちいち許す許さないではないように思えるところです。

 

ところで、少し時代が下って『宋書』の中に出てくる倭の五王にしても、『日本書紀』編纂期に大王家(のちに天皇家と呼ばれるようになりますな)にとって都合のいいように作り出した話があるわけで、それぞれの王がどの天皇に該当するのか、議論が喧しいわけですけれど、これまた『日本書紀』を鵜呑みにはできない。研究成果として、大陸や半島の史書と突き合わせると時代が大きく前後している記述がなされていたりするそうですし。『日本書紀』では記述にあたり干支が記されているということですが、60年に一度、同じ干支が巡ってくるとして大陸の史書と60年や120年、食い違いが出たりすることもままあるようで。素人目にはいやはやと思うしかないような…。

 

ですので、倭の五王にどの天皇が当たるのかと言っても、日本側の記述にある天皇がそもその実在に疑義ありてなことにもなるわけですなあ。差し当たり、このくらいの古いところで、ほぼほぼ実在したと考えられているのは雄略天皇と継体天皇であるようで。ワカタケル大王と言われたらしい雄略天皇は、ヤマトから遠く離れた関東のさきたま古墳群から見つかった鉄剣に「ワカタケル」と読める文字が刻印されていたとは、よく知られたところでありましょう。

 

ときにもうひとりの継体天皇ですけれど、こちらについては以前にちょっとした興味から少々探究を試みたりしましたですが、そのときに読んだ本を思い返しても、やはりヤマト中央が全くもって一枚岩ではなかったことが知れるのでありますよね。コシの国(福井県か?)から担ぎ出されたとも言われる継体天皇は、雄略天皇がその即位にあたりライバルを排除しまくった結果として後継者不足となってしまった結果として、なんとか皇脈をたどって見つけ出され、それにしてもなかなかヤマトの地に入ることさえできなかったわけで。

 

古代史ロマン…てな言い方になびくものではありませんけれど、いろいろと想像を掻き立てられるところはありますね。わからないから面白いということもありましょう。むしろ世界史の中で、フランス王家やらイングランド王家でとんでもない王様がいて…といった話はよく知られておりながら、日本史の中ではあまり知られていない。そもそも、日本という国の枠組みやらその国名までいつから使われているのか分からない。それにも関わらず、日本は長い長い歴史があって…などと、きわめてざっくり言ってしまうのは適当ではないのでしょうし、も少しわかっていることとわかっていないことを区分けて知っておくことは、無駄なことではなかろうと思ったりもするのでありました。