天下に覇権を確立しつつある織田信長が石山本願寺を落とすに手を焼いていた時代。現在の大阪城の場所にあった堅牢な守りの本願寺に対して兵糧攻めで臨むも、今の大阪湾よりも海岸線が近かった当時、本願寺に味方する勢力が隙をついて糧食を運び込んでいた…とは聞き及んでいたことですけれど、対本願寺戦の詳細には触れたことがありませんでしたので、「こんな戦いがあったのであるなあ」と思ったものでありますよ。予て気にはなっていた(といって幾星霜…ですが)和田竜の『村上海賊の娘』を文庫版全四巻で読んで、木津川合戦のことを知ったような次第でありまして。
本願寺を日干しにするため、難波の海に防衛線を敷いていた織田方の水軍に対し、毛利水軍とこれに加担することになった瀬戸内の村上海賊衆とが戦いを挑んで討ち果たし、晴れて本願寺には兵糧が運び込まれた…ということなのですけれど、そこにタイトルロールたる「村上海賊の娘」が大きく関わっていたとして展開される壮大な?歴史ファンタジー(敢えて言ってしまいますが)でありましたなあ。
そも系図類の史料にあたると、村上海賊衆の本家的な鵜島村上(これの本拠に関してはしばらく前の『ブラタモリ』で取り上げられておりましたですね)の主、村上武吉には元吉、景親という息子たちのほかに娘がいたのだそうな。「女」とだけ記されて、その生涯はもとより名前さえも不明となっている人物に、名前を与え、実にたくましい想像力で人物像を作り出し、大活躍させてしまったというお話。歴史を描き出すには分からないところがあるのは致し方ないところで、それを作家たちは想像で埋めるわけですが、ここまで話を作り込むのは虚構の醍醐味でさえあるのではなかろうかと。
以前、『のぼうの城』を読んだときにも思ったことではありますが、良し悪しは別としてとても読みやすいのですよね、この人の文章は。それだけに「なんだか映画のノベライズのような…」とも感じたりしたのですけれど、読み進めればそうとばかりと言えない気にもなってくるのですな。はたと気付いたことに作者はこの作品で吉川英治文学新人賞を受賞しているとは、大衆小説が対象となる賞であって、そもそも純文学を指向しているわけではないのだろうと考えれば、読みやすさは大きなポイントでもありましょう。
実際、かの賞に名前が冠された吉川英治の小説自体が読みやすいですものね。時代が違うので、もそっと時代ものっぽい語り口(地の文でも台詞でも)であったように思いますけれど、それがリアルタイムな今風に変化したと思えば、いささか語り口までが吉川英治を彷彿させて、その意味では何とも賞にふさわしいものであるのかもしれません。
ちなみに、時代ものっぽい語り口てなことを言いましたですが、そのあたりはもしかすると日常的な言葉遣いの変化と同様に、あまり気にしすぎるときりがないのかなと思ったり。現在進行中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、そのあまりに現代風な台詞のことごとに「ぴくん!」とすることしばしですけれど、だんだんと「(そういうもの)であるか…」と(信長風の)受け止め方になってきたりもしておりますよ。まあ、慣れでもありましょうし、それがまた良いのかどうかは分かりませんけれど。
ところで、話の内容からしても、また先に映画のノベライズでもあろうかと言いましたように、この話を映画にしたらさぞや戦国スペクタクルなものになろうなあと想像するところですけれど、ヒロインたる村上海賊の娘に対してしきりに「悍婦」「醜女」と言われていたりするだけにキャスティングが難しいのかも。
実のところ、昔の美女像というのが(江戸期の浮世絵にも見られるように)かなり固定的な要素が決め手になっていたところが、本作のヒロインはことごとくその要素をぶちやぶる(面貌も姿かたちも、そして行動も)存在なだけに、「悍婦」「醜女」という言葉(実際、作中で何度も繰り返されて…)に拘らなければ、やってみたいと思う女優さんはたくさんいるかもしれませんですね。おそらくは、きわめて現代的でスタイリッシュはヒロイン像となることではありましょう。
長い話でしたが、時にくすっとしてしまい、また時にほろっとしてしまい、読んで楽しいひとときでありましたですよ。