さて、山梨県北杜市の桜を巡って、「神田の大糸桜」の次に訪ねたのは「谷戸城址の桜」でありました。北杜市あたりの地域情報誌『なないろ』には、こんな紹介がなされておりましたですよ。

谷戸城址は平安時代の末期に武田氏の祖、黒源太清光が築いたといわれる国指定の遺跡。山全体に約400本のソメイヨシノや八重桜が時期をずらして咲き誇り、見事な景観に圧倒されます。

ということで、神田の大糸桜が大きな一本木であったのに対して、こちらは集団で見せる類いのものでありますなあ。時期的には八重桜には早いわけですが…。

 

 

あたりは比較的平地が広がる中、この谷戸城址のある場所だけがこんもりとした丘になっているのですな。城として遠くが見渡せ、敵の襲来を感知するにはうってつけの場所とは言えそうです。ここに城を構えたと説明にあった黒源太清光とは?ですが、現地の解説板にありました「甲斐源氏略系図」によれば、出自はこのように。

 

 

ご存知の通り、源頼朝は八幡太郎義家の系譜ということで、少し遡っては木曾義仲、も少し遡ると足利氏や新田氏となる流れが枝分かれしているわけですけれど、さらにさかのぼって義家の弟である新羅三郎義光を祖として現れるのが甲斐源氏、武田氏ということになりますですね。

 

ただ、後に甲斐源氏と言われるようになるものの、元は常陸国と大きな縁がありまして、系図では義光の子・義清に確固書きで武田とありますように、今の茨城県ひたちなか市武田のあたりを本拠地としたことから武田冠者と言われたのが始まりのようす。その義清の子がに谷戸城を建てたと言われる清光ですけれど、黒源太の異名から想像される暴れん坊だったのか、義清、清光の親子揃って甲斐に放逐されてしまい、結局のところ甲斐を地場にしたようで。

 

でもって、黒源太清光の子が近頃は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもって聞き馴染みとなった信義ですなあ。元服にあたって祖父ゆかりの武田冠者から武田姓を名乗って、武田信義となる。ここから武田信玄、勝頼とつながっていくわけですね。

 

ともあれ、谷戸城は古い時代のものなだけに、戦国期に築かれた城のイメージとはやはり異なっておりますなあ。水を満々と湛えた堀があるでなく、石垣がそそり立っているでもなく…。ですが、これらは城の見映えをよくしたいという築城主の見栄もいささかは入っておりましょうから、実戦本位に考えれば機能的ではあったのではなかろうかと。

 

 

こちらは「横堀」と呼ばれる空堀の跡ですな。時を経て浅くなってしまったのでしょうかね。この横堀を最下層にして、丘の上へ上へと廓(跡)が連なって造られておりますよ。

 

 

こちらが登り詰めた先、一の廓(いわゆる本丸ですかね)への虎口に当たります。往時には天守が聳えて…というのは後々の城郭建築の話であって、砦くらいは築かれていたでしょうか。それにしても、立派な松がたくさん(したがって、地面には立派な松ぼっくりがたくさん)ありましたなあ。

 

ついつい♪千代の松が枝分けいでし…と、『荒城の月』を思い出したりもするところですけれど、考えてみれば歌い出しの方は♪春高楼の花の宴…ですから、花見で一杯の歌であったかとも。ここまで来て、本来は桜見物のお話がすっかり甲斐源氏と城址見物の話になってしまったことに気付いたりするのでありました(笑)。