時々ですが立川の映画館では「爆音上映」なる企画が行われたりしてますし、見る側としては館内の右から左へ、左から右へと音が飛び交うようなステレオ感と言いますか、映画の音響といってそんなことしか思い浮かばずにしいたわけですが、先ごろドキュメンタリー映画『ようこそ映画音響の世界へ』を見たことで、映画を形作る構成要素として音響がいかに大きな役割を果たしているか、思い知ることとなったのですなあ。

 

そこで比較的最近のものとして、昨年の(2021年4月25日に授賞式のあった)アカデミー賞で音響賞を受賞した映画『サウンド・オブ・メタル』を見ることに。予備知識の全く無い中では、タイトルから想像してぎんぎんのヘヴィメタが、それこそ爆音上映的に展開されるのでもあるか…と少々身構えたですが、そういう話ではありせませんでしたなあ(笑)。

 

 

確かに主人公のルーベンはバンドのドラマーですので、始まりの部分ではエキサイティングなドラムを交えた音楽が大音響で流れるわけですが、そうした音の洪水に日々埋もれてきたことも関わってか、耳に変調を来すのですな。だいたいヘッドフォン・ステレオなどで音楽を大音量で聴き続けても難聴になることが知られていますので、むべなるかな。といって、音の大きな音楽に携わっている人が全てそうなるということでもないでしょうから、一概に大音響ばかりを攻められはしないでしょうけれどね。

 

ともあれ、音楽を奪われたルーベンは悲嘆にくれ、自暴自棄にもなるわけですが、聴覚に障害のある人たちが共生するコミュニティに身を置いて、落ち着きを取り戻していくのですな。その頃にはすっかり耳は聞こえなくなっていたようで。

 

ですが、音楽への情熱やみがたいルーベン、再び音楽活動ができるようになれば、かつてバンド仲間として一緒にツアーを巡っていた恋人のルーも自分の元に帰ってくるだろうとも考えて、「聴性脳幹インプラント」という手術を受けて音を取り戻すことに…というふうなお話でありました。

 

耳が聴こえなくなるということは可能性の問題として、誰にも起こり得るところですので、もしも聴こえなくなったら…ということを想像させずにはおかないわけですが、考えてみれば「音が聴こえない」という状況がどんなものであるかは全くもって想像するしかないのですよね。仮に無音の部屋に閉じこもって疑似体験はできるかもですが、それはその室内だけの束の間の体験でしょうから。

 

ということは、聴こえなくなったルーベン、あるいは聴こえなくなりかけていた頃のルーベン、そして手術によって音を取り戻すルーベンがどのように聴こえ、どのように聴こえないのかを再現する術を、聴覚に障害のない人は持ち合わせていないのではないかと思うわけです。医師や研究者による知見の積み重ねによって、「こうであろう」とは言えるとしても、それもあくまで推測ですし。

 

映画ではその推測(ひとつの可能性としてのありよう)を示してくれるのでして、映画としてそこに生ずる音響上の創意、そのあたりがアカデミー賞の音響賞を受賞した所以でありましょうか。

 

テクニカルなこととは別に、映画の中ではルーベンが暮らすコミュニティの主宰者・ジョーはむしろ状況を受け入れた中で前向きに生きていく方向性を示唆していることには、あれこれと思い巡らしの生ずるところではなかろうかと。受け入れがたい状況を受け入れて前向きにとは、言うは易く…でもありましょうしねえ。

 

ただ、聴こえることを当たり前として過ごしてしまっている見方が、どうしても入り込んでしまっているような気もしたものでありますよ。そこに何かしら、微々たる違和感を抱いたりもするところではありますが、果たしてこの映画をご覧になった方々はどう受け止められましょうかねえ…。