久しぶりに戯曲を手にとったのでありますよ。それにしても先日は「アナキズム」、今回のタイトルは『テロ』と、穏やかならぬ?ところが続いてしまったようで。ともあれ、作者のシーラッハですけれど、祖父のバルドゥール・フォン・シーラッハはナチス・ドイツにおいてヒトラー・ユーゲントの指導者であった…とかいうことは、いつまでもついて回ってしまうのですかね…。

 

 

本作は裁判劇となっておりますけれど、結末がふた通り用意されているという、いささかトリッキーな仕立てなのですなあ。事件の審理を、観客は参審員(日本でいえば、裁判員でしょうか)の立場になって聴き、有罪か無罪かの評決を下すことに。舞台からの問いかけとして、会場で実際に大勢を占めるのが有罪か無罪かによって、その後のシナリオが異なっているわけです。だもんで、2種類の結末ということに。

2013年7月26日、ドイツ上空で旅客機がハイジャックされた。テロリストがサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、7万人の観客を殺害しようと目論んだのだ。しかし緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜する。乗客164人を殺して7万人を救った彼は英雄か?犯罪者か?

扱われている事件の、本当にざっくりした概要はこのとおり(Amazonの「商品の説明」より)なのですけれど、検察側、弁護側それぞれに論証として参審員に語り聴かせるところはこれだけはありませんですね。さりながら、その内容に立ち入ることは、いわばネタばれ的なことになってしまいますので、これには触れないように。

 

そうなると実にまどろっこしいことにはなってしまうところながら、弁護側の証人として出廷する軍関係者に対して検察側が問いかける「他に手立てはなかったのか。オプションの想定は尽くされたのか」といったあたりには、頷いてしまったり。一方で、引き合いに出すのが適当かどうかですが、ドラマ『踊る大捜査線』の有名なセリフ(「事件は会議室で起こっているのではない」)を思い出してしまったりも。なんとなれば、他所から「ああだ、こうだ」と言ったり、あるいは後付けで「ああもできたのでは、こうもやれたのでは」と言ったりするのは、的外れなのではないかと。

 

そんな両者の言い分を耳にする参審員としては大いに思い惑うところかと思いますし、そうであるからこそ、これが最後に二種の結末が用意された芝居として、芝居のストーリーのみならず、その構造自体が成り立つことにもなるのでしょうなあ。

 

例えば、スタジアムにいて助かった人が関係者にいるとか、あるいは逆に撃墜された飛行機に乗っていた方が関係者にいるとか、そういう状況によっても考え方に大きく影響を与えることになろうかと思うところですけれど、(極めて第三者的な見方になるのかもしれませんが)裁かれるべき(というか、対処が必要とされるべき)なのは必ずしも個人でなくして、軍という組織体なのかもしれんなあと思ったりしたものです。

 

仮に(英雄視するまでいかずとも)裁判の結果として無罪、つまりは罪はどこにもなかったということになりますと、現在進行形で北の方の大国が行っていることを是とする理屈にもなってしまいそうな気がしたもので…。

 

理想論でしかないと言われればそれまでではありますが、そもそも武器なるものの存在が「どうよ…」なのではなかろうかとも。でも、このケースにしても9・11にしても民間航空機が武器化されてしまったのであって、それ自体は武器ではないではないのではありますが、武器ではないものが武器として使われてしまう背景には犯人側が武装して搭乗機のクルーを脅すという行為があるわけで、やはりそこには武器が出てきてしまっているのですよね。

 

アメリカの銃社会ぶりを見ても、自衛のためという理屈からヒトがそれを手放すことはとても難しいのかもしれませんですが、一歩間違えればそれこそ「ごめんなさい」では済まない威力を発揮してしまうものの存在は、よおく考えられなければならないように思ったものなのでありましたよ。ましてや、個人ではないより大きな組織体が持つ武器は、なおさら恐ろしい威力を持ったものになりましょうしね…。