およそ政治の話やら国際情勢の話に触れることは無いのですけれど、書かないからといって考えることが無いわけではないのですよね。日本から遠く離れたところではあるものの、今、起こっていることには「こんなやり方でしか、解決はできないのだろうか…」と思うわけです。折しも『くらしのアナキズム』なんつう本を読んだりすれば、思い巡らしはなおのことともなろうかと。

 

 

それにしても「アナキズム」(かつてはアナーキズムと言われる方が多かったようにも思いますが)とは穏当ではないような。それと言いますのも、アナキズムで思い浮かぶのは政府打倒のテロリストだったりしてしまうものですから。

 

さりながらそもそもを考えてみれば、支配者がいない、すなわち政府が無いことを指向する無政府主義との訳語をそのままに受け止めれば、必ずしもそこに至るプロセスに暴力的な要素があるかないかは別問題でもありますね。さらにそもそもで言えば、ヒトがヒトたる暮らしを始めて以降、政府なるものがあることの方が歴史的には短いのでもありましょうし。

 

ですが、今では「国」があり、「政府」があることが自明化してしまっていて、そのこと自体に疑いを持つことが無いのが日常でもあろうかと。そこに切り込んでいくのですよね、本書は。帯にはこんなことが書かれています。

国家は何のためにあるのか?ほんとうに必要なのか?
「国家なき社会」は絶望ではない。希望と可能性を孕んでいる。よりよく生きるきっかけとなる、〈問い〉と〈技法〉を人類学の視点からさぐる。
アナキズム=無政府主義という捉え方を覆す、画期的論考!

人類学の視点というあたり、「ん?!」と思うところですけれど、ヒトの営みを考えるときに、ともすると世界的、国際的潮流から外れたというか、遅れたというか(不適切な用語とは思いますが)、そんなふうに見られる人々の中に入り込んで研究したりするに及び、多くの(先進国の)人々が当然と思う、政府のような自治体組織が崩壊していたり、機能していなかったりすることも目のあたりにするわけですね。

 

そんな、いわば無政府状態にあるところで暮らす人々は、日々どうにもならない生活状況にあるかといえば、そうではないと。無ければ無いなりの工夫で、暮らしているのですなあ。もちろん、頼りになるのは自分たち、自分の周りで共に暮らすひとたちなわけで、日ごろ、自治体なりから提供されるサービスの一切、果ては警察・消防といった部分もまた、全て自分たちで対処しなくてはならない。さあ大変!とも思うところです。

 

ではありますが、自己完結的に自分たちに必要なことを自分たちで工夫して賄っていくことは大変なことではありながらも、自分たちの枠外にいる人々(その人たちにまたその人たちなりに工夫し合っているわけですが)のことまでは考える必要が無い(もちろん、その余裕もないでしょうけれど)。卑近な言い方をしてしまいますと、税金の使い方で自分たちには関係が無いものなど、無いということにもなるのですなあ。

 

例えば軍事費といったものを、自分たちに関係が無いと言い切るには様々な考え方があろうかと思いますが、これって自分たちのためである以上に「国」のためだったりしませんでしょうかね。「何を言ってる?国、すなわち自分たちではないか」との考えもありましょうけれど、そこで改めて「国って必要なのか」と問うてみることは決して無駄ではないと思うところです。

 

人間社会はさまざまな効率化を推進して、共同体もより大きくなることでスケールメリットを生かすような形に動いてきたものと思います。そこに「国」という器も入るわけですが、本来はそこに暮らす人々の相互扶助へのスケールメリット追求だったはずが、いつのまにか「お国のため」のような、本末転倒が平気で叫ばれるようになってしまった。考えてみれば、おかしな話です。どこで歯車が狂ったのだろうかいね…と。

 

ウクライナという国がある。ロシアという国がある。両者は民族も言葉も近く、兄弟のような関係ながら、国であるが故に国境がある。でも、ヒトは動くものであって、近しい間だけに行き来も当然にある。それを改めて国境の区切りで見直すとまだら模様になって、どっちの国がいいのかみたいなことにも。

 

どっちの国がいいのかではなくして、そこに住まう人たちが仲良く平穏に暮らせることがいいわけで、そこに国という枠組みを持ち込むとおかしなことになってしまうとなれば、どこに問題があるのか、でありますよね。スケールメリットの話を出しましたですが、個人や小さな集合体どうしの諍いであれば、喧嘩ですんだものを、大きな枠組みで対処しようとすると、これまたいたずらにスケールが大きくなって、喧嘩のありようも周囲に大きく被害を及ぼすようになってしまう。こんなことは誰も願っていないことであろうに。犠牲が出るのは仕方がないとは、やはり「国」の理屈でありましょう。

 

本来、この本は現今展開している状況とは無関係なものなのですが、ついつい引き合いだしてしまいますと、こんなことを思い巡らしたりもしてしまったわけでなのでありました。ここでも、当然を疑ってみるということの必要性がひしと感じられたものでありますよ。