とりあえずJR中央線の西国分寺駅を発して姿見の池に立ち寄り、東山道武蔵路跡をたどってから武蔵国分寺跡国分尼寺跡と訪ねてきましたですが、ぶらり歩きのおしまいに向けてはやおらこのような道を通り抜けることに…。

 

 

実はこの道、鎌倉街道であると伝わっているそうな。付近の解説板にはこのような説明書きがありましたですよ。

鎌倉時代、幕府の置かれた鎌倉と各地を結び、のちに「鎌倉街道」と総称される幹線道路が整備されていった。武蔵国内を通るもののうち、上道(かみのみち・律令制下の東山道武蔵路をほぼ踏襲する)は特に有名である。(国分寺)市域を通過する「上道」は…街道沿いに有力御家人が勢力を振るっていたことから軍事的にも重要な道路であったことが知られる。

東山道武蔵路は先に見てきましたように、整備された広い幅を持つ立派な道路だったですが、鎌倉街道はそれよりも何百年か経て開かれたはず。にもかかわらず、歩行者がすれ違えるくらいの道幅しかないとは意外といいましょうかね。これまでの長い年月に左右は埋もれてしまい…ということでもなさそうなのは、ご覧の通りの切通ですのでね。もとよりこれだけの道を切り開いたものなのでしょう。

 

考えてみれば、東山道武蔵路は中央政権の権威を地方に知らしめるため、道自体も立派に普請し、またそこをたいそうな行列が通って国府と往来するところを見せるという、パフォーマンス要素もあったかもしれないところながら、鎌倉街道の方は「軍事的にも重要な道路」と紹介されておりましたように、「いざ、鎌倉」と御家人が馳せ参じるには山を切り開いてとにかく最短距離の道を作り上げることが先決だったのかもしれませんですね。

 

上の写真ではさほどの開削とは想像しにくいでしょうけれど、そのまま進んでいきますと両側が盛り上がった地形で、あたかも空堀のそこを歩いているような印象でもあります。例えば、西側斜面はこんなふうな高低差がありまして。

 

 

ちなみに設えられた階段を登った先は「伝祥應寺跡」であるという表示がされていましたので、登ってみることにした次第。今ではただの園地になってしまっておりますが、往時は大したお寺さんだったようで。

 

 

解説板もありましたけれど、これ自体もすでに打ち捨てられたような状態で判読も難しいことになっておりましたですよ。そこで、八代将軍吉宗の時代にあたり一帯が新田開発された折、後継寺院として今では場所を変えて存続することになったという祥応寺のHPからちと説明書きを借りることに。

伝祥應寺は、鎌倉時代に武蔵国分尼寺跡(現在の国分寺市西元町・黒鐘公園)の北丘に興ります。 開山由緒は不明ですが、当地の発掘調査で数十基の板碑等が出てきていることから、阿弥陀信仰の盛んな寺院であったことがわかっています。板碑の最古のものでは正応元年(1288年)とあり、国分尼寺の焼失以前から祥應寺が建てられていたのではないかと考えられています。

まあ、いっときにもせよ、鎌倉街道というメインストリートに面した場所で、それなりに賑わいもあったかと思うところながら、今はただただ木立の中にひっそりと。逆にいえば、鎌倉街道が開削される以前の雑木林を偲ぶことができるようになったとは言えるかもしれません。

 

ちょうど反対側、東側の斜面にも階段がつけられていて、上には「中世の塚」があるということでしたですが、草ばかりが茂ってどうにも何が何やら。ただ、そのすぐ向こうの足元をJR武蔵野線が行き過ぎる線路になっているものの、鎌倉街道側からはそれと知ることもできず。木立の中の階段を登って視界が開けると、見えるのは住宅の屋根と鉄道線路ばかりとは、なかなかに不思議な景観であるなと思ったものなのでありました。