さてと「ぶらり武蔵国分寺散歩」も終盤に差し掛かり、国分尼寺の史跡を訪ねることに。
武蔵国分寺跡から国分寺市文化財資料展示室に立ち寄って、
ほどなく車通りの多い府中街道へと行き当たることになりますけれど、
これが差し詰め、かつての東山道武蔵路の道筋をなぞった現在の道ということになりしょうかね。
(区画整理などの関係か、昔の道の上にそのままでも、平行してでもありませんが、大筋において)
でもって、その府中街道を西に渡り、平行するJR武蔵野線の高架を潜り抜けますと
そこには武蔵国分尼寺の史跡が広がるわけですが、実はこの先の部分は昨年7月に訪ねっておったのでして。
今回の武蔵国分寺散歩を書き起こすにあたりまして、
武蔵国府の探訪に続いては武蔵国分寺跡を訪ねるべく「実際、出かけたこともあったのですが…」と
前もって言い訳しておいたのは、こうしたことから。
ま、どうでもいい話なのですが、やおら写真に表れる季節も天気もここで一変しますので、
ちょいとエクスキューズを申し上げた次第です。
ともあれ、JR武蔵野線をこんな感じのところで潜り抜けたこちら側、
背後の一帯は「国分寺市立歴史公園 武蔵国分尼寺跡」が芝地となって広がっているのでありますよ。
全体像としては、国分寺(国分尼寺に対しては国分僧寺と言うようですが)を小ぶりにした感じでしょうか、
金堂・講堂を中心にして両脇に経蔵と鐘楼が配されていますが、七重塔はありませんですね。
あとは僧職の数が違うのか、国分僧寺では東西に二棟、細長い僧房が置かれておりましたけれど、
こちらでは(尼坊というそうな)講堂の裏側に一棟だけのようです。
ただ、この金堂跡の基壇部とその前に並ぶ幢竿の再現を見る限り、
国分尼寺の方が史跡らしい印象を与えてくれる気がしますなあ。
住宅地に囲まれた国分寺跡とは違って、北側と西側がすっかり木立というのも雰囲気があるような。
と、こちらは礎石がしっかりと置かれて建物があったことを想像しやすい尼坊跡です。
解説板によりますと、そもそも国分寺建立の詔でもって尼僧の定員が定められていたのだそうで。
まあ、全国一律に造られたものですから、細かな決めがなされていたのですなあ。
ちなみに尼僧の定員は10人で、僧寺の方が20人。ということで、僧寺には僧房が二棟あったのですなあ。
個々の空間には男女差無しということでありましょう。
ところで、この尼坊前にも幢竿が立てられたと思しき丸太が並んでおりますが、
他とは違ってここだけ斜めになっている。角度にいかような思惑があるのかは分かりませんけれど、
角度はおよそ54度。微妙の数字ながら、おそらく意味はあるのでしょうなあ…。
(解説板にも、斜めにした理由はわかっていないと)
さらに解説板に曰く、国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」(僧寺の方は「金光明四天王護国之寺」)でして、
このような説明が記されたおりました。
「法華経」は女人成仏を説いており、尼寺の成立には女人救済を願う光明皇后の意向が大きく働いたものと考えられる。
とはいえ、尼僧の歴史はこれより古く、聖徳太子なども尼寺を建立したそうですけれど、
国分僧寺、国分尼寺が諸国に次々と造られたのち、仏教界(とそれを取り巻く社会の考え方もあったでしょう)では
女人を遠ざけるようになってしまうそうな(Wikpediaによる)。改まるのは鎌倉時代になってからとか。
室町時代には鎌倉五山、京都五山に倣い、それぞれの地に「尼五山」ができるまでになったそうでありますよ。
これを考えますと、国分尼寺は造られたものの、その後しばらくして風向きが変わり、
荒廃するのも早かったのであるかな…と思ったりもしたものでありました。